洗ったばかりの頭をバスタオルで拭きながら台所に顔をだした燐は、ダイニングテーブルのそばに勝呂が立っているのを見つけた。シャワーを浴びているあいだに勝呂は目を覚ましたらしい、テーブルの上には朝食の用意があった。
 台所のベランダからは、レースのカーテンをふわりと揺らして風が入ってくる。朝の空気はさっぱりとして、全身の汗を冷たい水で流し終えた体には特に気持ちがよかった。ぬれた髪から香るシャンプーのにおいと、身につけたばかりのTシャツから漂う柔軟剤のやさしいにおいも燐は好きだった。
 そんな朝のすがすがしさを、ところが、勝呂のしかめ面がだいなしにしていた。いらいらと気を立てている勝呂に近づいて様子をうかがえば、その手の中には新品のマーマレードの瓶がおさまっていて、その蓋を開けようと勝呂は踏ん張っているのだった。
「あかねえの?」
 たずねながらも燐は、勝呂の皿の、茶色の焼き目のついたトーストのほうに目を向けて、俺も食べよと袋から取り出した食パンをトースターに押し込んだ。
「あーもう、知らん!」
 勝呂はマーマレードの瓶をテーブルの上にがつんと置いた。マグカップに入ったコーヒーが大きく左右に揺れてもう少しでこぼれるところだった。
「今朝はジャムなしや」
 吐き捨てながら勝呂は冷蔵庫からバターを取り出し、椅子に座ると、それをトーストにぬりたくった。結局、瓶の蓋は開かなかったのである。
 燐はテーブルに投げ出されたマーマレードを手にとり、蓋をつかんで手前にぐいと回してみた。すると、蓋はぱこりと音を立ててあっけなく瓶からはずれた。とたんに甘い蜜のにおいがたちのぼった。
「ほれ、あいたぞ」
 勝呂の前にマーマレードの瓶と蓋をひとつずつ置いた燐は、勝呂がむっとした顔で顎を引くのを見てにやりと笑った。
「おまえ、握力は弱えよな。俺のほうが力はある」
 自慢げに燐が言うと、勝呂はふんと鼻を鳴らしてバターのついたトーストに乱暴にかぶりついた。
 がっちゃんと音がして新しいトーストのできあがりを知らされる。燐は勝呂の皿を奪って、トースターに手を伸ばした。こんがりとやけた表面にはバターをぬって、それから、勝呂が開けられなかったマーマレードものせようと思う。
 トーストの耳をそうっとさわって持ち上げようとしたとき、燐はうしろから勝呂の腕が腰に巻きつくのを見た。
「うおっ!?」
 体が浮き上がったかと思うと視界がぐるんと回転して、燐の目の前には勝呂の背中がさかさまにあった。腹が勝呂の肩の上にのって、体がふたつに折れまがっている。勝呂に持ち上げられてそのまま肩に担がれていた。
「なにすんだよっ」
 勝呂の上で暴れるけれど、勝呂はびくとも動かない。勝呂の背中に手をついて体をおこそうとしても、勝呂の手にがっちりと腰をつかまれているからどうにもならない。顔の横をバスタオルが床へと落ちていく。
 やがて燐はリビングのソファの上に放り投げられた。
「いってえなっ」
 柔らかいソファの上とはいえ、もろに頭が当たって燐はうめいた。それに気をとられてしまったせいで、勝呂の顔が目と鼻の先にあるのに気づくのが遅れた。
 勝呂に両手首をつかまれて、燐の上半身はソファに縫いとめられる。腰から下は勝呂の足に押さえつけられて自由はきかない。覆いかぶさっている勝呂の体は重くて、はねとばせるようなものではなかった。
「どけよっ」
 わめきながらにらみつけた勝呂の目に、きのうの夜に勝呂の中に見えた激しい色と同じものを見つけて、燐は眉間に皺をよせた。
「朝からさかってんじゃねえ」
「―――おまえが悪い」
 とは言われても燐にその覚えはない。勝呂自身が勝手に火をつけたのだ。
 燐はもういちど腕に渾身の力をこめた。けれどその力は、上から全身で押さえつけてくる勝呂には伝わらず、自分の体を震わせるだけだった。
 あがく燐を見下ろして勝呂は口の端を持ち上げると、
「みくびんなや」
 そう不敵に笑った。





その4:押したおす
(2011.08.03)


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