「忘れもんないか?」
たずねる勝呂の声が燐の背中に届く。靴の紐を結ぶのにてこずっていた燐は、無言のままで勝呂にうなずきを返した。
立ち上がって背後の勝呂を振り返ると、ほれ、とかばんを渡される。頑丈なスポーツバッグには、きのうの夜にあわてて準備をした一週間分の荷物がつまっていた。
かばんを受け取った燐は口から大きなため息がもれるのをとめられなかった。けれど、仕事にいきたくないとわがままを言ってしまうような聞き分けの悪いことはもうしない。
「ほな、きばれや」
「ん」
返事はしたものの、勝呂がそばにいないではあまり頑張れそうにない。
燐はおずおずと勝呂を見上げた。
「どないした」
「すぐろ―――」
燐は勝呂に向かって静かに手を伸ばすと、ひっそりと勝呂に抱きついた。
「―――時間、大丈夫なんか?」
「走ればまにあう」
伝えると、勝呂の腕が燐の背中にまわった。燐の体はしっかりと勝呂に抱きとめられていた。
勝呂の胸に頭を押しつけた燐の目に、履いたばかりの靴が見える。
靴紐なんてちぎれてしまったらよかったのに。
自分の往生際の悪さに燐はたまらず苦笑した。
その6:抱きしめる(前から)
(2011.08.04)
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