「ただいまあ」
と、玄関の中へ一歩を踏み入れた勝呂は、目に見えた薄暗い廊下の先から炊きたてごはんのにおいがするのを嗅ぎとった。つられた腹がぐうと鳴って空腹を意識する。追い打ちをかけるように、香ばしいにおい――たぶん生姜焼きだろう――が勝呂の鼻を刺激した。
ドアを閉めて勝呂はもう一度ただいまと、今度は少し声を張った。そうして荷物を床に降ろしながら燐の返事を待ったのだけれど、靴を脱ぎ終わるころになってもまだ燐の声は聞こえなかった。きっと台所で夕食を作るのに気を取られているのだ。
とりあえず早く燐の顔を見たくて勝呂は荷物をそのままに台所に足を向けた。ところがそこでふと思い出してしまう。名古屋出張の土産に買った赤だしを早く冷蔵庫に入れてやらねばならなかった。
しぶしぶ引き返して荷物を手に持ち上げたとき、
「おう、おかえり」
燐の声が背後に聞こえた。慌てて後ろを振り返ったら、その姿は見当たらなくて、ただ燐の横顔がさっさと台所へ引っ込んでいくのが見えた。
なんだなんだ、五日ぶりに家に帰ったというのに、ずいぶんとあっけないじゃないか。これでも早く仕事を片づけて、もともと一週間だった予定を二日も繰り上げて戻ってきたのだ。勝呂は憮然として廊下を大股で進んだ。
台所に入ってすぐに燐の姿を見つけた勝呂は、荷物をおざなりに放りなげると燐の背中めがけて抱きついた。
「うわっ」
と声を上げて驚く燐の反応は期待どおりでよしとする。
「あーもう、落っこったじゃねえかよ」
文句を言われて視線を下げれば、トマトの大玉が水を張ったシンクの中に沈みかけているのが見えた。それは燐の手からころげ落ちたのだろう、水しぶきが燐の腕にまで飛び散っていた。
「いきなり、びびるだろうが」
ぶつぶつと叱る燐の声を聞きながら、勝呂は燐の首に顔を寄せて鼻を鳴らした。しばらくぶりの燐のにおいをめいっぱい吸い込むと少しだけ気持ちが落ち着いた。
「ひげくすぐってえよ」
首と肩をすくめて笑い声を立てる燐の、声もにおいも体温もせんぶ、勝呂の中にたまっていた寂しさをほぐしていく。
燐を抱きしめるだけでは足りなくなって、勝呂は燐の体をもっと自分の胸へと引き寄せた。
(あかん、はなされへんようになったぞ)
その9:抱きしめる(後ろから)
*KKT B-SIDEの佐伯マルさんのイラストから妄想させていただきました
(2011.08.07)
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