深夜という時間を抜きにしても寮の屋上はあまりに静かだった。まるで、いまこの世で活動しているのは自分ひとり、なんていう気分になってくる。それでも、見上げた夜空にさんさんと満月が輝いているから、少しも心細いとは思わなかった。
 そういえば、まだほんの子どもだったころにも今夜のように眠れない夜があった。一緒にベッドに入ったのに弟だけがさっさと寝てしまって、自分はちっとも眠くならない。ひとりだけ取り残されるのがどうしようもなく怖くて、なぜいつものように眠れないのか不安でたまらなくて、弟にしがみついて静かに泣いた。しばらくすると向かいの父の部屋から物音が聞こえてくる。耳をすませば、それはラジオの音楽に合わせてハミングする父の鼻歌だった。少しだけ目をあけてみると、ドアのすきまを通して、父の部屋の電球の灯りがもれているのが見えた。父がまだ起きているのだと分かったとたん、ほんとうに安心して涙はすっかり引っ込んだ。自分だけが夜に置いていかれたのではなかったことが嬉しかったし、一緒に起きているのが父であることが心強かった。そうして父の気配だけを感じて目をつぶっているうちに、いつのまに眠ったのか、朝になっていた。
 あのとき父が気持ちよさげに歌っていた曲はなんだったのだろう。ラジオから聞こえていた音楽は憶えていないけれど、父が鳴らしたメロディとリズムならまだちゃんと記憶にある。なのに、曲のタイトルどころかジャンルすらも分からないままだ。だって、父の鼻歌は相当調子はずれでへたくそだったから。あれじゃあ分からなくてもしょうがない。
「ずいぶんとごきげんのようで」
「っ!」
 男がいきなりあらわれた。
 目の前に、それも宙に立っている。
 びっくりしてパニックになったら体もつられて後ろにひっくり返るはめになった。コンクリートにぶつかった頭は痛いし背中はしびれるしで、視界がにじんだ。
「そんなに驚いてくれるなんて嬉しいですねえ」
 笑いながら男が顔をのぞきこんでくる。目が合うと男はもっとにやにやした。文句を言おうとしたのにうまく口がまわらなくて、かわりに思いきりにらみつけてやった。
 ちゃんとした言葉を出せたのは、胸のどきどきが少しおさまってからだった。肘で支えながら体を立て直して、その男を斜めに見上げた。
「なんなんだよ、あんた」
「おや、お忘れですか。わたしはメフィス―――」
「じゃなくて! なんでここにいんのか聞いてんの!」
 大声でわめいたら、メフィストは耳をふさぐ真似をして顔をしかめた。
「なんでと言われましてもね。散歩の途中であなたを見つけて声をかけたまでです」
 そういうことなら、見えないふりで通り過ぎてくれればよかったのに。
「ったく、こんな夜更けになにやってんだか」
「あなたもひとのことは言えないでしょ」
 小さくつぶやいた言葉はしっかり拾われて、とても的確なつっこみが返ってきた。これでもうほかに言う文句もなくなった。
「―――散歩って、もしかして空歩いてきたのか?」
「はい、そのとおりです。上のほうがより楽しいのでね」
 メフィストは地上にいるのと変わらない様子で空中に浮いていた。いつもの白い衣装と帽子が暗がりによく映えている。昼間に見ればうさんくさいと感じるマントも、今は風もないのにゆったりとはためいていて、それらしい雰囲気が出ていると思う。
「ん? どうしました?」
「いや、なんかさ、エクソシストは空も飛べるんだなあって」
「エクソシストだから飛べるのではありませんよ。私だからそれができるのです。すごいでしょう?」
「うん、すげえな」
 うなずいたら、目を細めたメフィストにまじまじと見つめられた。
「あなたに褒められると、なんだか素直に嬉しいと思ってしまいます」
「そうなのか?」
「まあ、実を言いますとね、これ、あなたもできるんですよ」
「俺が? 空飛べんの?」
「ええ。あなたが望めば、空を飛ぶだけじゃない、なんだってできるようになります。できないことがないくらいに」
「なんで俺が―――」
「特別のなかの特別だからですよ」
「なにが」
「だからあなたが」
「俺がとくべつ?」
「そう。私も特別ですが、あなたはさらに特別の特別なんです」
 メフィストの顔つきが少し変わったような気がした。いつものこの男らしくない柔らかい声色に、気持ちがざわめいてくる。
「よく分かんねえけど―――」
「今はそれでもかまいません」
 合わさった視線、奥の奥までを探られるように見られて、なんとなく居心地が悪い。このまま目を合わせていてよいものか、じんわりと不安がにじみでてくる。
 先に目をそらしたのはメフィストのほうだった。
「それにしてもねえ、ご覧なさい。今宵の月はいいでしょう?」
 メフィストはうっとり満月を仰ぎ見ながら、それがまるで自分のものであるかのように自慢げに言った。
「こういった美しい夜に考えごとは無粋というものです」
 そう言って視線を戻したメフィストの、白い手袋のはまった手がこちらに伸びてきた。そうして目と鼻の先に掌を差し出される。
「どうです、あなたも行ってみませんか」
「どこに」
「お散歩に、ですよ」
「空を歩くのか?」
「ええ。私といっしょに」
 どうしよう。宙を浮くことに好奇心がわかないわけでもないけれど、だからといって実際に散歩をしたいのか、はっきりとは分からない。このままここに座って月を眺めるだけでじゅうぶんという気もしているのだ。
 行くのか残のるかちゃんと決めるまでは、差し出されたメフィストの手をとることも拒むこともできない。その手を見つめたままで固まってしまった。
「ん、まあ、いいでしょう」
 声がしたと思ったら、目の前にあった掌が遠ざかっていく。メフィストを見上げるとやんわりと笑いかけられた。少し急ぎすぎましたねという彼のつぶやきが聞こえたけれど、なんのことだか意味はよく分からなかった。
「それでは奥村くん、またお会いしましょう」
 ごきげんよう、そう言ってメフィストは帽子を手に取ると、芝居の終わりとばかりに仰々しく一礼した。顔を上げるあいだの一瞬にウインクされたように見えたけれど、それはきっと気のせいだろう。
 1、2、3―――カウントが終わると同時に、メフィストは消えた。あわてて周囲を見渡したけれど、どこにも姿はなかった。
「おい、メフィスト」
 ためしによんでも返事はない。さっきのようにまたいきなり出てくるんじゃないかとしばらく身構えていたのに、結局はなにも起こらなかった。メフィストは完全にそこからいなくなっていた。
 ふいに静けさが戻ってくる。
 月の光はしんしんと、衰えることなく降りそそいでいる。
 メフィストが現れる前と後で変わったことはなにもないけれど、もとどおりひとりになったことを少しだけさびしいと思った。





Shall we?
(2011.06.12/08.26修正)


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