騎士団の世界を飾る重厚な扉を押し開いた向こうに見えたのは住み慣れた街の夜の景色で、今日もまたそれがそこにあるということに安心した雪男は深く長い息をついた。鍵の束を鞄にしまい、後ろ手で扉を閉めて、そうして開放的な空気を新しく吸い込むと、少しずつ体がほぐれて外の世界に馴染んでいく。それは、雪男がエクソシストからただの奥村雪男に戻るときだった。
 昼間にはない涼しさを含んだ風が吹いている。穏やかとはいえない流れの速さであり、身を過ぎる風はびゅうびゅうと耳にも聞こえている。日ごとに重く暑苦しくなっていくコートを脱いで手に持った。分厚いそのコートがなくなれば体を遮るのはシャツ一枚で、頼りなげに風に翻弄されて乾いた音を立てている。いいように風になぶられて乱れるネクタイを襟から引き抜き、それをポケットに押し込んだ。シャツのボタンをいくつか外し、袖を肘までまくり上げると、荒々しく肌にあたる風が心地いい。寮までの帰る道のりが、おかげで少しは楽になりそうだった。
 一本道をしばらく歩いていくとそれがふたつに分かれる場所にさしかかる。右を行くのが寮に戻る道であり、左は、かつて暮らした修道院につながっていた。
 左の道を歩いていたころ、となりには父がいて、導かれるままについていく雪男には、右の道を実際に歩いている今を想像することなどあり得なかった。あのころは、父と同じコートを着て、同じバッジをつけて、悪魔を排除するという同じ目的のためにそこにいる自分に不満はかけらもなかったし、並んで歩いているように見えて実は果てしなく遠く前を行く父をひたすら追いかけていれば、いつか自分も父のようになれるのだと信じていた。なにものも守ろうとした父の、限りない強さを継ぐという望みだけが盲目的に雪男の前にあったのだ。
 けれども、
(現実は容赦ないね、父さん)
 越えるにははるかに高く、その内に庇護されるにはとてつもなく強固な壁であった父を失くして、あらゆるものが雪男に直接ふりかかった。むきだしになった世界は、父のように優しくも潔くもなくずいぶんと身勝手で、ずるくて無知で何もしない大人の中を渡っていくには子供は力を持たず経験も足りなかった。まだ15歳だから仕方がないだとか、先が長いのだから焦る必要はないのだとか、そういう甘えは自分にはそぐわないし、それが自分に何ももたらさないと雪男は知っている。エクソシストとして生きていく道を選んだのは自分自身だ。たとえそれが用意されていたのだとしても、そうなるように仕向けられていたのだとしても、自分で考えて決めて動いて努力を重ねた結果が今なのだ。だから雪男は後悔しない。後悔のない生き方などないというのなら、今はまだ後悔に背を向けて前だけを見る。
 寮へと続く道はそのうちになだらかな上り坂になった。徐々に浅く短くなる呼吸を感じながら、一歩ずつ足を繰り出していけば確実に前へと進む。勢いを増しつつある風が体に流れる汗を冷やしてくれるのが救いだった。
 鞄を右手から左手に持ち替えて肩をならすと、重さは変わらないのに、少しだけ腕が軽くなったような気がした。いつだって鞄は、昼間の学校と放課後の塾とそして騎士団の書類が一緒くたにつっこまれている。ぱんぱんに膨らんで重たいのにはもう慣れてしまっていた。
 生徒と講師とエクソシストを同時にこなすことを良くも悪くも心配されてはいるけれど、それをやめるつもりは雪男には毛頭ない。自分が無力だということはよく分かっている。自分ひとりでどうにかできないくらいこの世界は広く深く暗い。でもそれでもどうにかしなければならないときのために、今のうちにできることをできるところまでやっておく。来たるべきときに、本当に自分が望むことを諦めなくてすむよう、自分の納得いかないことをちゃんと否定できるよう、今から未来の選択肢を増やしておくのだ。それが、自分の大切だと思う人が不幸にならず、自分がその人を失わないですむことにつながるのなら、どれだけでも労は惜しまない。ここまで歩んできた道が生まれたときから運命と名のついて決まっていたものだというならそれでもいい。ただしこれからは自分で選びとった道を運命と名づけるのだ。そこには、誰が決めたのでもない自分の意志が必ずある。
 突然わいた横なぐりの風を浴びて雪男の足が浮かびあがった。風は鞄ごと腕をさらおうと一方的に畳みかけてくる。
(そうだ、もっと吹け)
 斜めにたわもうとする体に雪男はまっすぐ力を込めた。

(それでも僕は倒れない)





きみのゆく道
(2011.07.14)


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