俺たち塾生が帰るころをねらいすましたように本降りになった雨だけれども、それに動じないでいられる俺はこの傘のおかげだった。傘のおかげというよりも雪男のおかげというべきか。今朝、出がけに雪男に渡されたのだ、今日は帰りに雨が降るからと。ちっともそんなふうには見えない朝の空を見上げて俺は、雪男の予想は当たらない、外れたら笑ってやろうとそんなつもりで傘を受け取った。
 結局雪男の言ったとおりに雨が降っているのだから、俺はおもしろくない。これじゃあ雪男のことを笑えない。どうせ予想するなら雨なんかじゃない、晴れをつれてくればいいのに。だから、ありがとうなんて俺は雪男に言ってやらないのだ。
 校舎のいちばん先の軒下にしえみが立っていた。ざあざあ雨の向こうをながめて途方に暮れる横顔が見える。俺もねずみ色の空を見上げた。大きな雨の粒がひっきりなしに降りてきて、地面をたたいている。はじかれた水しぶきが屋根の下にいる俺の足元にまでひっついてきて、それだけでズボンのすそが色を変えていた。不安げなしえみの顔を見て、たぶんこの雨は弱まることはないのだろうと俺は思った。
 しえみは傘を持っていない。俺は傘を持っている。しえみのもとへ近づきながら、それでも俺はまだ覚悟を決められないでいた。しえみを俺の傘の中に入れて、ふたりでひとつの傘に入って、そして一緒に帰るだけ。ただひとこと、おまえ傘持ってないのか、だったら入れてやるよ、そんなふうに言うだけのことなのだ。それなのに俺はこんなにもどきどきしている。しえみがそれを断わるはずがない、俺を拒むはずがない。しえみを信じているのに、しえみを信じる俺自身のことを俺は信じていないらしい。
 傘を握りしめる手が濡れているのは雨のせいじゃなかった。
 ちょっとずつ足取りが重くなっているのは水を吸った制服のせいじゃなかった。
 そうして気がつけば、俺がしえみに届くより先に雪男がしえみの前に登場していた。
 しえみのそばには雪男がいる。がっかりの気持ちはちょっとだけで、それよりもほっとした気持ちのほうが大きかった俺というのは男として情けないのかもしれない。けれど、雪男がしえみと一緒に帰ってくれるなら、しえみは濡れずにすむ。しえみが濡れなくてすむのなら俺の傘でなくてもいい。雪男は俺がしえみを知る前からしえみのことを知っているし、しえみは俺を知る前から雪男のことを知っている。ふたりは俺の知らないふたりだけのことを知っている。だったら、雪男で大丈夫、しえみをまかせられる。
 しえみのハートマークの目が雪男を一心に見つめてきらきらと輝いている。これでよかった。俺ならしえみにひとつしかやれないけれど、雪男ならしえみにふたつもあげられる。これが一石二鳥ってやつだろう?
 このままだと俺はふたりに近づきすぎてしまうから、もっとゆっくり歩かなければならない。意外とゆっくり歩くのは難しいので俺はその場に立ちどまった。音をさせないように傘を開いて、俺は俺をふたりから隠した。雨の音だけを耳に入れて、雨の冷たさだけを感じて、雨と一体になる。とにかく俺はふたりの邪魔だけはしてはならなかった。
 いつまで雨は続くのだろう、明日もまた降られるのはいやだ。晴れ渡った青空を早く見たい。大きな空に向かって思いっきり叫んでやりたいなにかを俺は持て余している。
「兄さん」
 声が聞こえた。雨音が響く耳の中で雪男の俺をよぶ声がした。
 隠れみのにしていた傘を持ち上げてみると、兄さん、ともういちど俺をよんだ雪男が目の前に立っていた。
「おまえ、なんでいんの」
「兄さんのに入れてもらおうと思って」
「だって、しえみは」
「もう帰ったよ」
「ひとりでか」
「うん。でも、ちゃんと僕の傘は渡したから」
 しえみのハートマークが心配になった。ぽろぽろとこぼれ落ちてやしないだろうか。俺を見てにこにこしている雪男を、俺がしえみに代わって恨めしく思う。
「女心のわかんねえやつだよ、おまえは」
「そんなことないとは思うけど」
 雪男は俺の傘の中に入ってきた。少し高く腕を伸ばしてやらないと、雪男の頭が傘につっかえてしまう。しかたのないやつだ。
「兄さんは分かるの、女心」
「まあな」
「でも、弟心は分かってないよね」
「なんだそれ」
「はは、ほらね」
 からからと笑う雪男は、勝手にひとりで納得したようだけれど、俺にも分かるようには言ってくれないから、ぜんぜん俺はおもしろくない。意地の悪い俺はひとあし先に歩きだした。そしたら、あわててついてくる雪男が目のはじに見えて、笑い声がのどからこみあげてきた。





どしゃぶりだから、傘
(2011.06.28)(タイトル拝借:BALDWIN


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