僕は兄さんを好きだ。家族愛とかきょうだい愛とかいう当たり障りのないうつくしい情愛を越えたところの、男と女が互いを求めるような熱情にたぎり欲にまみれた想いを兄さんに抱いている。兄さんを僕だけのものにしたくて、兄さんを誰にも渡したくない。プラトニックじゃないからセックスでつながりたい、結婚もしたい。兄さんが女なら僕の子供を産んでほしいし、僕が女なら兄さんの子を産みたい。男同士だとか血のつながった兄弟だとかいう常識的な問題ぐらいじゃ抑えがきかないほどに僕は兄さんのことが好きだ。

兄さんにそう告白したら、兄さんの言うことには、それは勘違いだろうと。ずっと二人だけで生きてきたから、雪男の隣にはいつも俺がいたから、近すぎてそういう思い違いをしているだけなんだろうと。外に目を向けてみろ、少し距離を置いてみろ、自分たちを客観的に見てみろ。思い込みだとか刷り込みだとか気の迷いだとか、とにかくそういう類のものなんだ、おまえの俺への気持ちは。そんなふうに兄さんが懇切丁寧に僕を説得するから、それならばと僕は兄さんからしばらくのあいだ遠く離れてみることにした。

誰も僕を待たない部屋は暗くて冷たくて、兄さんがいないことがただひたすら悲しく思えた。兄さんが作らない料理は味がしないから何を食べても食べなくてもおんなじ、面倒くさいと放っておいたら食欲はなくなった。目が開いているあいだはところかまわず勝手に涙が溢れてきて、目を閉じていてもそれはとめどなく。毎日ひとり、寂しくて、つらくて、何もかもどうでもいい、兄さんの顔が見たい、兄さんの声が聞きたい、兄さんに会いたい、兄さんに触れたい。兄さんへの想いが募るばかりで、僕は、だめだった。ひと月ももたなかった。不眠症と栄養失調と鬱病とをひとくくりに発症して倒れた僕は、結局、兄さんのもとに連れ戻された。

というわけで、やっぱり僕は兄さんのことが好き、勘違いなんかじゃなかった。兄さんがいないと死んでしまう、兄さんだけが僕をこの世につなぎとめる。僕をひとりにしないで。兄さんにそう頼みこんだら、兄さんの言うことには、雪男には、ふさわしい女の子と結婚して、かわいい子供を育てて、暖かな家庭を築いて、人としてのまっとうで幸せな人生を送ってほしい。それが兄から大事な弟へのお願いなのだと。そうやって兄さんが懇願するから、それならばと僕はためしに結婚してみることにした。

兄さんじゃないのなら相手は選ばない、てきとうに声をかけて手をつけた女の子とすぐに籍を入れた。披露宴も新婚旅行もぜんぶ向こう任せ、僕は賛成も反対もない。相手に干渉もしなければ要望もなく、せめてもの思いやりだとか慈しみだとかの情は欠片もわかなかった。兄さんが願うような暖かくて幸せな家庭が成立するどころか、同じ空間に常時他人が居座るそこは耐えがたい苦痛と緊張を僕に与えた。それは拷問にも等しく。僕を慰めたのは、あれが兄さんだったらなあという脳内でくりひろげられる素敵な妄想だけだった。新妻と一度も同衾することなく新居に帰らないようになって半年が過ぎたころ、形ばかりの妻だった女に背中からぶすりと刺されて、僕の結婚の真似事は血みどろのうちに終わった。包丁の刃があとほんの数センチ横にずれていれば命すら終わっているところだった。

というわけで、僕の幸せな人生は兄さんと一緒に生きていくこと以外にありえない、僕を幸せにできるのは兄さんだけ、ずっと僕のそばにいて。そう兄さんにお願いしたら、兄さんの言うことには、俺は悪魔で雪男は人間だから一緒にいたら迷惑をかけるし嫌な思いもたくさんさせる。俺のほうが長生きで雪男はすぐに死んでしまうからずっと一緒にはいられない。どうせ別れることになるのなら最初から一緒じゃないほうがまだ耐えられるかもしれない、と。

どうあっても兄さんは僕を受け入れてはくれないらしい。僕の気持ちを勘違いだと言ってなかったことにしようとしたり、勝手に僕の幸せを決めつけて僕の想いを無視しようとしたりする。あげくに、悪魔と人間という乗り越えがたい壁を持ち出して、僕に兄さんを愛することを許してくれない。なんて頑なで残酷なひとなんだ。



「ていうか、あれはただのびびりだろ」

そう言ったのは、アラフォーにもなっていまだに露出過多の薄ら寒い格好をした永遠の十八歳だった。退院祝いとバツイチ出戻り記念にいいことを教えてやろうともったいぶったように切り出したシュラさんは、しこたま胃袋に流し込もうとする酒で唇を濡らしながら続けた。

「おまえが独り暮らしをしてるとき、燐はいつだっておまえのことを心配してた。ちゃんと飯は食ってるか、ちゃんと寝てんのか、無理はしてないか。出てくるのはおまえを心配する言葉ばっかりで、そんなに言うなら会いに行けばいいじゃないかって言っても、それはだめできない、雪男に距離を置けと言ったのは俺だからって。

でもやっぱり我慢はできなかったみたいでな、メフィストに頼み込んで例外中の例外ってことで、おまえの部屋につながる鍵をつくってもらって、こっそりおまえの様子を見に行ってた。見かねて部屋の掃除やら洗濯やらつい手を出したこともあったんだと。気づかなかったって? それでも料理だけはできなかったってさ。ほんとは雪男に手料理を食べさせたい、でも作り置きなんかしたら怪しまれる、食べれば俺がつくったものだとすぐにばれるからって我慢したらしい。

おまえに会えないこと、燐も相当堪えてたみたいでな、どんどんやせていくし、ぼうっとすることが多くなって、よく瞼も腫れてた。部屋の中で倒れてたおまえを最初に発見したのはあいつだよ。泣きながらあたしに電話かけてきて、雪男が倒れてるどうしたらいいっておろおろして。おまえが回復するまで甲斐甲斐しく世話する燐のやつ、すっかり生き返ったようだったよ。

ちょうどおまえが結婚してからだ、燐が無茶苦茶に仕事をつめこんで体を酷使するようになったのは。任務でのあいつの戦い方もひどくてな、力任せに刀を振り回して型もなにもあったもんじゃない。やたらめったら悪魔を切り倒して、嬲り殺して、あれはもうほとんど八つ当たりよ。進んできつい仕事を受けて敵の中に突っ込んでいくから、負った怪我も治りきらないうちから新しい傷が増えて。感覚が麻痺してたんだろうな、自分の体の痛みも、周りから向けられる冷たい視線もぜんぜん気に掛けちゃいなかった。

ちゃんと休め、もっと自分を大事にしろって言っても、いやだうるさいほっといてくれの繰り返し、ちっともあたしの言うことなんか聞きやしない。少しでも気を休めて暇ができてしまえば嫌でも想像しちまうんだと、おまえと嫁が乳繰り合って幸せそうにしてるとこ。そういうのを酒で紛らわそうとするあいつによく飲みに付き合わされたよ。ぐだぐだに酔っ払ったあげくに、雪男をとられたら俺にはなんにもないって泣くもんだから、優しく慰めてやったさ。

おまえが刺されたって聞かされたときの燐の顔は一生忘れられないね、あたしでもびびったもん。あのバカは留置所まで乗り込んでいきやがって、おまえを刺した女を殺そうとするから必死で止めてやったよ。ここの腹の傷はな、そのとき暴走したあいつにやられた。あたしまで死ぬところだったんだぞ、ばーか。

まあ、つまりだ、あたしの言いたいのは、おまえはあいつにちゃんと愛されてるってことだよ。よかったな。

え? よくない? だったらどうして兄さんは僕を拒むのかって?

あいつのあれは外堀を埋めてるのとおんなじさ。おまえの言う好きが本当かどうか確かめてるんだ。おまえの気持ちをそのまま信じたり受け入れたりってのは、燐にとっちゃ難しいことなんだろうよ。雪男のそれが勘違いだったらどうしよう、雪男の幸せはちゃんと別にあるかもしれない、俺は間違いたくない、後悔したくないって、いっぱい余計なこと考えてんだぜ、あいつは。

燐のなかでおまえを想う気持ちははっきりしてるくせにな。おまえが倒れたとき、あいつは嬉しそうな顔して言ったよ、やっぱり雪男には俺がいないとだめだなあ、しょうがないなあって。おまえが刺されたときなんか、雪男はもう誰にも渡さないって、燐はあたしにまでおまえに近づくのを許さなかった。おまえが大事で、好きで好きでたまんないって、あいつはものすごい想いを抱えてる。だからこそ、おまえと気持ちが通じることが嫌なはずないのに、望むところだろうに、でもだからって、おまえの気持ちを簡単には認められない、こわくて、慎重になってるんだ。ひとつひとつ確かめて、よかった間違いじゃなかった、ちゃんとそれで合ってたって、不安をぜんぶ潰したいんだよ。

ところでさあ、あたし、燐には幸せになってほしい、あいつが欲しいと思うものを手に入れさせてやりたいと思ってるんだよね。で、おまえがあいつのためにどういう選択をしようが、おまえの姿形がどう変わろうが、あたしはおまえを責めたりしないし、むしろよくやったって褒めてやれる。あたしは、おまえにだって、ちゃんと幸せになってほしいって思ってるんだから。

まあ、つまりだ、あたしが言いたいのは、どんな結果になっても、おまえらはあたしにとって、ずっと変わらない、かわいい弟みたいなもんだってことだよ。忘れるな」

シュラさんが姉だなんてぞっとしない。けれど僕はこの人にはきっと一生頭が上がらないんだろうなと思う。



僕は兄さんが好きだ。兄さんが欲しくてたまらない、兄さんをぜんぶ僕にちょうだい。兄さんを僕にくれるなら、僕は代わりに僕を兄さんにあげる。兄さんをひとりにしないよう、兄さんとずっと一緒にいられる体を僕は手に入れたんだ。だから、僕のぜんぶを兄さんにもらってほしい。僕を兄さんだけのものにして、僕を離さないで。そう兄さんにすがりついたら、兄さんの言うことには―――





兄さんの言うことには
(2012.3.5)


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