そういえば、と思い出したように我に返った雪男は、パソコンのスクリーンに釘づけにしていた目の片隅でとなりの机を見た。ちょっと休憩―――そう言って兄が部屋を出ていってからどれくらいの時間が過ぎただろう。自分の作業に没頭するあまり、すっかり兄のことを忘れていた。
 集中力の続かない兄が長いあいだ机の前にいられないのはいつものこと。なので、部屋を抜け出ようとする兄を雪男は止めなかった。どうしたって兄は言うことを聞かないし、自分の思いどおりにしか動かない。そして雪男も、そういう兄のことをなんだかんだ言いながら最終的には受け入れてしまう自分の詰めの甘さを分かっている。だから、近ごろでは兄の怠慢を見咎めることも言葉で諭すこともいいかげん面倒だと思わないこともない。
 それにしても兄はいったいどこへ行ったのだろう。もしもアイスでも買いに出かけているのなら、ついでに水も買ってきてくれると嬉しい。とはいえ、水を買ってくれるよう頼んだときでさえそれができなかった兄であるから、過剰な期待はするまい。
(―――ん?)
 ふいにいい匂いが鼻を掠めて、雪男はキーを打つ手をとめた。無視することの難しい香ばしい匂いが、開けっ放しのドアと窓から部屋の中へと入り込んでくる。 なるほど、兄はキッチンにいるのらしい。
 雪男は鼻をすすってさらに匂いを取り込んだ。
 何をどうすればそういういい匂いを作り出せるのか、ほとんど料理をしない雪男にはそれがよくわからない。ゆえにこの点に関しては、雪男は兄を素直に尊敬していた。
 まだ午後の四時前だというのに今から夕飯の支度を始めているのだとしたら、今日の夜は手の込んだ料理でも出てくるのかもしれない。そうでなくても、どんな料理にせよ、兄の作ったものならば雪男は喜んで食べるのだった。
 兄の料理をほかの何よりもおいしいと雪男は思っている。それは単純に、兄が作るものであることが雪男にとってのおいしさだからだ。上司に連れられて行った高級料亭の料理は、寮に戻ってから兄が夜食にと作ってくれたインスタントラーメンに敵わない。『兄の味』と『それ以外はすべて同じ』のふたつのカテゴリしか雪男には存在しなかったし、前者はおいしいもの、後者は普通の味、というのが雪男の味覚だった。
 兄の作る食べものでできているのが雪男である。嫌いだった茄子も、兄が揚げた天麩羅を食べて以来それが雪男の好物になった。レバーもチーズも、兄が調理して食べさせてくれたおかげで苦手ではなくなった。兄手作りの汁粉がきっかけで和菓子全般を食べられるようにもなった。兄がいなければ、いま食べているものの半分以上は味を知らないままだったと思う。雪男は兄によってつくられた、というのは少しも言い過ぎではなかった。
 そろそろ作業を再開しようとマウスを握ったとき、雪男ははっとして顔を上げた。つい今まで気持ちよく嗅いでいた匂いがまるごと一変したのである。この新たな匂いはそう、まさしく、
(カレーだ!)
 匂いだけでもうまいってしまう。特別にそれが大好きでたまらないというわけでもないのに、条件反射で嬉しさがこみ上げてくるのだ。うきうきだとかわくわくだとかうずうずだとか、言葉にすればずいぶんと子供っぽい気持ちの流れに体を支配されてしまう。
 とてもこのままではいられない。市販のルーを溶かしただけの何の変哲もないカレーなのにどんな専門店の味も到底及ばない兄のそれを、ほんの少しでも構わない、味見をしなくては何も手に着きそうになかった。キーボードの上では、現に、指先は固まったまま動かないで、これ以上の作業を続けることを拒否している。
 雪男は素早く上書きボタンをクリックした。その勢いのまま椅子から立ち上がると、大股でもつれるように一歩を踏み込み、そうして部屋の外へと飛び出ていった。





日常の茶飯事
(2011.07.09/08.26修正)



*雪男の好物とかオフィシャルなものと違ったらすいません


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