カーテンは半分しか開いていなくても部屋のなかを十分に満たしている朝日の光はまだ少し目に痛かった。ちゃんとまぶたを上げておくのがつらくて目を細めると、肩にまで力が入ってしまって体がごわごわした。
 久しぶりに明るい景色を見るような気がするのは、眠っているあいだずっと真っ暗の世界にいたからだと思う。結局僕はまる四日も寝込んでいたらしい、そう教えてくれた兄さんの目は真っ赤に充血して青黒い隈が目の下にくっきりうかんでいた。いつも睡眠時間はたっぷりでないとだめな兄さんが、そんなひどい顔になるまで僕のことを看ていてくれたんだ。
 兄さんはいま台所にいて、僕に食べさせるものを作っている。薬の時間のまえに胃に何かを入れておいたほうがいいと言って、てきぱきと部屋を出ていったままだ。本当は食べものなんかどうでもいいんだけどな、そんなのより早く僕のところに戻ってきてほしい、兄さんが見えないのはすごく不安でさびしかった。
 体がぎしぎしするのを我慢しながら上半身を起こして、クッションがわりにした枕の上に寄りかかった。兄さんのベッドに寝かされていたことに僕はそのときはじめて気がついた。

 こんこんとドアをたたく音がして、兄さんが戻ってきた。いつもはノックなんてしないのになあと思いながら兄さんが入ってくるのを待つ。ドアの向こうから兄さんの顔が見えると、安心してくしゃみがでた。
「寒いか? 窓しめる?」
「ううん、寒くない」
「ん、よかった。窓、もうしばらく開けとこうな。風が入ってくるの気持ちいいだろ?」
「うん」
 兄さんは手に持っていたトレイをイスの上に置いて、僕のいるベッドに腰かけた。
 兄さんの顔が目の前にアップになったと思ったら、おでこがそうっと近づいてきた。兄さんのおでこは僕のよりひんやりとしていて心地いい。
「よし、熱はもうない」
「ん」
「まだちょっとほっぺたは赤いけどな」
 そう言って僕のほおを両手で包み込んだ兄さんの、近くなった吐息がくすぐったくて、なんとなく甘いにおいもした。
 兄さんの長いまつげがしっとりと下を向いている。その奥にはまっている瞳はやっぱりきれいな青色で、こんなに間近で見られるのがうれしい。
 そうして兄さんのおでこが僕から離れていった。もっとくっついていたかったのに、すごくがっかりして兄さんをじっとり見ていたら、ふと笑った兄さんと目が合った。
「ほら、りんご、すってきた」
「りんご―――」
「これなら食べられるだろ?」
「うん、食べる」
 兄さんはスプーンを皿にひたして一口分のりんごをすくいあげると、それを僕の口もとに運んできた。さっき兄さんの息から感じた甘いにおいとおんなじにおいがした。
「はい、あーん」
「自分でできるよ」
「いいの、俺がしたいの」
 素直に兄さんの言うとおりに口を開けるとスプーンが入ってきて、ぱくりと口を閉じたあとにスプーンだけが外に出ていった。りんごはびっくりするくらい甘くて、何日かぶりの食べものを体もよろこんで受け入れている。うっとり味わっているうちになくなったので僕はまた口を開けた。
「もっとか?」
「もっと」
 えさをねだる雛鳥みたいに口をつき出したら、急かすな急かすなと言って兄さんは笑った。スプーンが来るのが待ちきれなくて、僕のほうからスプーンに近づいてりんごを迎えにいった。
「うまいだろ?」
「うん」
「りんご、しえみがくれたんだ。しえみんちの特別な庭でできたやつだから、栄養たっぷりなんだって。いっぱい食えよ」
 兄さんはスプーンにりんごをのせたまま、次に僕が口を開けるのをじっと待っている。兄さんのしっぽも僕を待って右に左に揺れている。僕は兄さんの期待にこたえて口を開けた。
 りんごのすったのは、かまなくても飲み込めるくらいにやわらかい。兄さんのやさしさが染み込んだりんごだから、それはとてもやさしい味をしていた。
「どうした、雪男?」
 兄さんの慌てたような声が聞こえてきた。
「なんで泣いてんだ? どっか痛いのか?」
 僕をのぞきこんでくる兄さんの顔がぼやけてよく見えなかった。嗚咽がこみあげてきて、口の中のりんごをうまく飲み込めない。鼻水まで垂れてくるから、あふれる涙と一緒に手の甲で顔じゅうこすった。
 やっとりんごを飲み込んで口の中が空になったとき、僕は声を上げてわんわん泣いた。
 兄さんに向かって両手を伸ばしたら、望みどおり兄さんは僕を抱き寄せてくれた。しゃくりあげるたびに僕の体が震えて、それはぜんぶぴったりとくっついた兄さんの体に吸い込まれていった。
 兄さんが背中をさすってくれるけれど、その暖かい手の動きがもっと僕を泣かせてしまう。僕をなだめようとしてゆきおゆきおと呼びかける兄さんの声がかき消されるくらい僕の泣き声は大きかった。
 兄さんをつかむ手に力が入りすぎていると分かっていたのに、兄さんを離したくなくて強張った手から力を抜くことはできなかった。兄さんがちゃんと息をして生きているのをずっと感じていたかった。
「大丈夫、大丈夫」
 兄さんはそう繰り返しながら、僕を抱きしめて背中をなで続けて、まるで僕の母さんみたいだった。

 兄さんが渡してくれたティッシュで鼻をかんだついでに目じりにたまった涙もふいたら、ティッシュはすぐにふやけて小さくなった。
「落ち着いたか?」
「うん、ごめん」
「あやまんなよ。すっきりしたろ?」
「うん、した」
「どうする? まだりんご食べる?」
「食べる」
 僕はうなずいて口を開けた。
 りんごを口に入れてもらってもぐもぐしていると、兄さんの肩がぬれているのに気がついた。僕の涙と鼻水のせいで、シャツの色まで変わっていた。
「兄さん、ごめん」
「なにが?」
「肩のところ、冷たいでしょ」
「ん、そのうち乾くからいいよ。それよりほら、」
 あーんと言いながらスプーンを運んでくる兄さんの口も開くのが可笑しい。僕も兄さんとおそろいであーんと口を開けた。
 口の中でスプーンが歯にひっかかって、かちりと音を立てた。ああそうだった、僕にも牙みたいにとがった歯ができたんだ。
「ごめん、兄さん」
「こんどはなんだ?」
「僕、悪魔になった」
 兄さんは黙ったまま、手にしていたスプーンと皿をイスの上に置いた。
「雪男、あーんして」
 言われたとおりに口を開けると、兄さんの指が中に入ってきて、僕のとがった歯にさわった。
「ちっちゃい牙が生えてる。なんかかわいいな」
「兄さんのとおんなじだよ」
「俺のはこんなかわいくねえの」
 そんなことはない。兄さんのだってかわいいと僕は思う。
 兄さんの手が今度は僕の耳にさわった。
「耳も、とがってるな」
「くすぐったいよ」
「まえよりよく聞こえたりするのか?」
「分かんない。兄さんはどうなの?」
「俺もよく分かんね」
 兄さんの手が下に動いて僕の耳たぶをさわった。そこはやわらかいから、さわるのもさわられるのも気持ちがよくて、僕は兄さんの手に身をゆだねた。
「なあ、雪男、」
「んー?」
「俺は、おまえが生きてりゃなんだっていいよ」
 兄さんの指は熱心に僕の耳たぶをこねくりまわしている。
「僕も、兄さんが生きてれば、もうどっちでもいいや」
 そう言って笑ったら、兄さんは僕の耳たぶをぎゅうっと引っ張って伸ばした。いたいよと抗議しようと思ったら、そのまえに兄さんの手は離れていった。
「俺たち二人とも悪魔になって、父さんはもっと気が気じゃないんだろうなあ。くさばのかげで、だっけ?」
「そう、草葉の陰」
「せっかく人間として育ててもらったのにな」
 兄さんの目が揺らいだかと思うと顔ごと下を向いてしまった。僕はそれをそのままにしておくのがいやで、兄さんがさっき僕にしてくれたのと同じように、兄さんのほっぺたを両手で包んで顔を上げさせて、兄さんのおでこに僕のをくっつけた。
「大丈夫だよ、兄さん。父さんにはちゃんと安心してもらうようにするから」
 父さんをこれ以上心配させない方法なら、僕には分かっている。兄さんと僕が生きて笑って仲良く暮らしていればいいんだ。人間じゃないから不幸なわけじゃないし、悪魔だから幸せになれないわけじゃない。人間だろうが悪魔だろうが、僕たちは笑って生きて幸せになる。それが父さんへの恩返しだ。
「僕はこれからも兄さんを守るよ」
 兄さんの体がぴくんと強張って、眉間にもしわが寄った。難しい顔になった兄さんが何かを言おうとして、兄さんが何を言いたいのかが分かる僕は、いち早く兄さんの唇に指を当てて言葉を閉じ込めた。
「兄さんも僕を守ってね。そしたら二人でずっと一緒にいられるから」
 これならいいでしょ?と兄さんをうかがえば、仕方ないなそれでいいよとでも言うように兄さんは苦笑まじりでうなずいた。
 僕は兄さんの唇から離した人差し指を自分の唇の上に置いた。それは兄さんと唇を交わすつもりでやったことだけれど、でもそれだけじゃやっぱり足りなかった。
「ね、兄さん、目とじて」
「なんで?」
「いいから、おねがい」
 わかったと言って素直に目を閉じてくれた兄さんにおねだりをもうひとつ。
「あーんして、兄さん」
「―――雪男?」
 兄さんがまた疑問を口にしようとするから、僕は待ちきれなくなって、兄さんに口づけた。りんごにぬれた僕の唇が兄さんのかわいた唇に重なった。
 誓いのキスを兄さんに。
 今度の誓いは、僕が兄さんを幸せにするということ。
 驚いたようにぱっと目を開けた兄さんの顔がみるみる赤くなっていく。僕は唇をつなげたままで兄さんに笑いかけた。そしたら兄さんの手のひらが目前に迫って、そのまま視界をふさがれた。
 真っ暗になって兄さんの顔は見えなくなったけれども、兄さんの唇が僕から離れていくことはなかった。




全てを捧げる朝
(2011.10.16)(タイトル拝借:BALDWIN


▲Text