大きなため息ひとつのあと、燐は観念して目を開けた。

 ゆっくりと体を布団から起こし、手元に引き寄せた目覚まし時計に顔を近づけてみれば、午前二時を三十分も過ぎていた。どうしても寝付かれなくて早くなんとか眠らなければと悶えているうちにそんなことになっていた。
 のらりくらりと立ち上がって、思いきり背伸びをする。関節のきしむ音は鳴るのにあくびは少しもこみあげないので、完全に眠気に見放されているなと思う。もうひとつのベッドでは弟が穏やかな寝息を立てていて、無性に悔しい気分にさせられた。
 見渡した部屋の中、薄いカーテンの向こう側がやけに明るく透けていた。そういえばそうだ、今夜は月が出ていたのだった。カーテンの隙間からのぞいて見えたのは、黄金色した豊満な月である。
 燐はパーカーをはおると、そばにあった倶利加羅を手に取って、ひそかに部屋を抜け出した。
 はじめて足を踏み入れた寮の屋上は、立入禁止の注意書きも転落防止のフェンスもない整然とした空間だった。そのまま歩みを進めていくと、アスファルトの終わりに行き着く。それより前に足を繰り出せる余地はなく、視線を下げた先には、薄暗い地の底が広がっていた。
 燐は、倶利加羅を支えにしてじわじわと膝を曲げ、縁に腰を下ろした。しばらく両足をぷらぷらと動かして地に足のつかないおぼつかなさを味わっていたら、手のひらと足の裏がひんやり汗をかきはじめた。けれど、沸いてくる感情は恐怖や緊張ではないと思う。興奮とかスリルとかいう、悪くない気分である。
 くまなく地上を眺めてみると、なるほどこの建物は孤立していた。廃れた寮が建つエリアには近所とよべる家屋もないし、茂るみどりが寮を囲んで、その存在を人の目から遠ざけている。つまり、ここは、いつどうなるか分からない自分のような不安要素をかかえるにはうってつけの場所だった。
 燐はほんの少しだけ倶利加羅を鞘から引き抜いた。とたんに熱を持たないひややかな炎が全身をめぐった。その青白い火は指先から髪の毛一本にまで及んだ。
 耳をさわればそれは長く尖って、口をひらけば鋭い牙が出っ張っている。意識して動かしているつもりはないのに、尻尾は勝手に揺れて落ち着かない。
 それらは当然人間にはないものだった。青い炎も、尖った耳も牙も、尻尾も、悪魔しか持たないものである。そしてそれらを持つ自分は、だから、悪魔だった。
 俺は人間じゃなくて悪魔なんだよなあ。
 言い聞かせるようにつぶやいても、それは少しも響かない。変えようのない事実だからしょうがないとは思うけれど、その自覚はいまだに漠然として、どうもしっくりこないのだ。変化した体にはなじんでいるのに、心は、自分が悪魔であることにまだしっかり向き合っていないように思える。そんな状態では、人間でないことが悲しいとか悪魔であることがいやだとか、気の持ちようを考えるまでには至らない。まだ基本的なことが足りていないのだ。
 これから先、見た目だけではなくて、心もだんだんと悪魔の本質に近づいていくのだろうか。もっと悪魔らしくなってしまえば、今のように人間にまじって人間らしく生活することはできなくなるのだろうか。人間だったときのなにもかもをなくして悪魔として生きなければならないのだろうか。弟の言うように悪魔にも人間にも命を狙われて、死んでいたほうがよかったなどと後悔する日がきたりするのだろうか。
 だめだ。たいした想像もできないし、変わることに対する恐れも覚悟も実感として伴わない。そのときがくればなんとかすればいい、きっとなんとかなるはずだと、楽観に逃げてしまう。
 結局のところ確かなのは、自分は人間ではなくなったけれど、悪魔にもなりきれていない、あいかわらずの半端ものということだけ。
 燐は、無理やりまとめてそれ以上の思考をストップさせると、倶利加羅をもとのとおり鞘におさめた。

 深く長いため息がでる。柄にもなく考えこんでしまうから眠れない夜はいやなのだ。





長い夜
(2011.06.06/08.26修正)


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