そうっとドアを開けて部屋へ入ると、さっきよりも部屋の中が涼しい気がして窓が開いているのかと思ったけれど、それはただの気のせいだった。窓はちゃんと閉まったままで、どこもなにも変わりはなかった。
 倶利加羅を机の横にたてかけて、ベッドに座ろうとしたら、
「にいさん」
 よばれてびくっとした。そんなふうに俺をよぶのは雪男しかいないと分かっているのに、とびあがった心臓はなかなかおさまらないで、ちょっとまえのメフィストのときといい、びびりすぎだよなと思う。
 苦笑いを隠してふり返ると、ベッドに横になったままの雪男がじっと目をこらして俺を見ていた。暗いうえに眼鏡をかけていないからどこまで見えているのかは分からない。でも俺にははっきり雪男の顔が見えている。
「わりい。起こしちまったか」
「ううん、ちょっとまえに目は覚めてた」
「そっか」
 眼鏡ごしでない雪男の目を見るのはあんまりないことだ。起きているときは必ず眼鏡をかけているし、寝るときははずしていてもまぶたを閉じれば目は見えない。眼鏡はただの薄いガラスのくせしてたまに雪男の目を隠してしまうことがあるから、俺はときどきそれが好きではなかったけれども、いまのように眼鏡なしのまっさらな目をまっすぐに向けられるのもなんだかそわそわしてしまう。
 それとなく顔をそらして俺は自分のベッドに腰かけた。
「にいさん、」
「うん?」
「眠れないの?」
「うん」
「ぼくもだよ」
「―――めずらしいな。おまえが夜中に目ぇさますなんて」
 いったん眠ると雪男は熟睡して途中で起きることはないのだと思っていた。それができるのをうらやましいと思ったこともあった。
「そんなことないよ。夜中にふと目が覚めることもあるし、なかなか寝付けないときもある」
 雪男は布団をはいで体を起こすと、ベッドの縁に座りなおして俺と向かい合った。
「にいさんこそ、こんな夜中に起きてることなんてあるんだね。いちど寝たらぜったいに起きないってわけじゃないんだ」
「おれだって、たまにはそういうの、ある」
「へえ、それは知らなかったな」
 雪男が目じりをゆるめたので俺もつられてそうした。
 カーテンから透けて入ってくる月明かりが俺と雪男の影を床に映しだして、ほそくながい黒の線がふたつそろって同じ向きにのびていた。俺がベッドに寝ころがると、その影は雪男のぶんひとつきりになった。
「眠くなったの、にいさん?」
「いいや、ぜんぜん。おまえは?」
「ぼくもぜんぜん―――」
 そう言ったきり黙りこんだ雪男は、しばらくして立ち上がると、自分の机の前にきて、いちばん下のひきだしを引っ張りだした。何かを探しているらしい、けれどなかなか見つからないらしい、しつこく中をあさっている。眼鏡をかけるか電気をつけるかしたらどうかと声をかけようとしたとき、雪男の声が小さくはしゃいだ。「あった!」
「にいさん、これ、つけてもいい?」
 雪男の手の中にあったこれというのは小さな四角い形をしていた。
「なんだ、それ」
「ラジオだよ」
 カチと音がして、雪男がスイッチを入れたのが分かった。ざあざあと音にならない音がしたと思ったら、人の声がとぎれとぎれに流れてきて、やがてそれは言葉となってつながった。抑揚のない平坦な男の声が小型ラジオの向こうからゆったりと一方的に語りかけてくる。ラジオのもともとの性能なのか、聞こえてくる音はずいぶんとぼやけていた。
「そんなの、おまえ持ってたっけ」
「うん。ていうか、これ、父さんのなんだ」
「父さんの―――」
「そう。遺品を整理してたとき見つけた」
 ラジオの男の声がやんで音楽に変わった。クラシックとよばれるジャンルの、歌のない楽器だけの曲が、とてもひそやかにすべりだすように始まった。
 雪男は枕のそばにラジオを置くと、ベッドに乗り上げてそのまま寝そべった。
「このままつけてても大丈夫? うるさくない?」
「だいじょうぶ、うるさくない」
「よかった」
 ラジオの電源がオンになっていることを示す真っ赤の粒のようなランプが、暗い部屋の中で確かな威力で光を放っている。きっとこぢんまりとついているのだろうスピーカーは、少しざらついた響きで美しい音の重なりを鳴らしている。
 ふと雪男の静かな笑い声が漏れるのを聞いた。
「どうした?」
「ん、なんでもないよ。ちょっと昔のこと思い出してただけ」
 こらえられない笑みを浮かべて言う雪男の横顔が見える。
「―――おまえさ、」
「え?」
「―――いや、なんでもない」
 俺は寝返りを打ってラジオに背を向けた。ちょうどクラシックの曲が終わって、今度は女の人の歌のまじった音楽が流れてきた。
「にいさん、」
「ん?」
「おやすみ」
「ん、おやすみ」
 ピアノの伴奏に合わせて女の人の低めの声がけだるげに歌詞をならべていく。それはどこの国の言葉なのだろう、俺には見当もつかないけれど、なにか心にじんと伝わってくるものがある。
 目を閉じてみたら、音楽に合わせて鼻歌をならす父さんの姿がまぶたの裏に見えた。音のはずれたおかしなメロディがいまにも聞こえてきそうだった。
 じんわりとあたたかい水が目のふちにあふれてくる。
 俺は、それから、少しだけ泣いた。





not only, but lonely.
(2011.06.19)(タイトル拝借:BALDWIN


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