キッチンに近づくにつれカレーの匂いは濃さを増して、そこへ向かう僕の足どりはもうほとんど小走りだった。空腹ではないつもりだけれど、ごくりと鳴る喉はとても正直に僕自身を露わにしている。まだカレーは煮込まれ始めたばかりだろうから、さらさらと軽くて水っぽいに違いないのに、ひとくち舐めるだけでもいいからそれを口にしなければこの足も喉もとまりそうになかった。
 たどりついたキッチンで僕を迎えたのはカレーの熱波だった。窓はどこもあいていたし風も通ってはいるはずなのに、まるで色のついた匂いと熱が、キッチンのいたるところに溜まっている。そのもとを生みだしている本人はといえば、コンロの前に陣取って僕に後ろ姿を見せていた。
 今も昔もキッチンは兄だけに自由が許される兄だけのものだった。あらゆる道具と食材を駆使して料理を作り上げる兄の最大の見せ場でもある。そして、その兄の料理のできあがりをおとなしく待つ僕に与えられたのがそれを食する役目であり、最高の誉れだった。
 声をかける間もなく兄が振り返って僕を見つけた。
 正面に見えた兄の顔はひどいしかめ面をしていた。その目が僕をじっとりと睨んでいて、それだけで兄の機嫌が悪いのがすぐに分かった。僕がその原因を作っていないのは確かなので、何か調理の最中に失敗でもしたのかもしれない。そこにいる兄は、楽しそうに腕を振るういつもの兄とはぜんぜん違っていた。
 不機嫌の訳が定まらないまま、僕はゆっくりと兄のもとへ歩み寄った。すぐそこに近くなった兄の表情は、ただ歪んでいるだけではなくてどこか青ざめて見えた。
「大丈夫、兄さん?」
 顔をのぞきこんだ僕に、兄は言葉なく首を横に振った。
「ね、どうかした?」
「―――おれ、しゃっくりがとまんねえ」
 言い終えるや、ひゃっと大きな声を鳴らして兄は肩を震わせた。
「たまねぎ炒めてるときからずっとだ。とめようとしてがんばってんのに、なにやってもきかねえ」
 兄の口から、心の底からのため息が漏れた。
「さっきもウコバクに頼んでさ、おれをびっくりさせてくれって。でもだめなの。水だって、飲むととまるってきいたことあるから、いっぱい飲んだんだぜ。ほら―――」
 兄はTシャツの裾を持ち上げると、膨らんだ腹を僕に見せてぺちぺちとそれを叩いた。
「―――でもやっぱとまんなかった」
 そう言って項垂れる兄の腹の上に、僕は伸ばした手を静かに置いた。そのままさすってみたら、生白い皮膚が見た目よりも張っているのを手のひらの感触が教えてくれた。水のせいなのか、そこはなんとなくひんやりとしているような気がした。
「相当飲んだね。なか、たぷんたぷんしてるでしょ」
「うん、ちょっと気持ちわりい」
 口を尖らせて言ったばかりの兄の体がまた縦に揺れた。しゃっくりは、今度は小さいのが二回続けてきた。二回とも細かな振動が手を通じて僕にも伝わってくる。腹の中に飲み込まれた水が兄の内側で波立つイメージが頭に浮かんだ。
 腹の上から僕の手が離れると、兄はめくり上げていたシャツを元に戻してカレー鍋と向き合った。
「そういえば、ウコバクは?」
「なんか、しゃっくりとめる薬草さがしに行ったぞ」
「そんなのあるの?」
「さあ、知らね」
 肩をすくめてみせた兄は、それから円を描くように大きく右腕を動かしてカレーをかき混ぜた。
 僕は兄のそばに立って、弱火でも立派にたぎっている鍋の中を見下ろした。火山のマグマさながらに、焦げ茶色した液体の表面にできた盛りあがりが、ぎりぎりまで粘ってから勢いよくはじける瞬間、濃密な香りが立ちのぼる。おかげで僕は、それを味わってみたいというささやかな願いを再び意識することになった。
 兄は、手に取った小皿におたまで掬い上げたカレーをのせると、白い湯気の立っているそれに息を吹きかけた。口をつけようとしたら、大きなしゃっくりに襲われて、兄の歯と小皿のふちがぶつかり、乾杯の音が鳴った。兄の眉間に鋭い皺が走ったのを見て、兄の不機嫌度がもうひとつ上がったなと思いきや、僕の予想はあっさりとくつがえされた。むくれていた兄の顔が、小皿のカレーをすするなりあからさまに緩んだのだ。
「おいしいの、兄さん?」
「うん」
「僕にも味見させてよ」
「まだだめ」
「なんで」
「煮込み始めたばっかだからな、まだちゃんと味がついてねえの」
「でも、おいしいって、兄さん言ったじゃない。だったらもう食べさせてよ」
「だめだめ、これからもっとうまくなるんだって」
「けど、ちょっとだけでいいからさ」
「だめです」
「ね、お願い」
「だあめ。もすこし待ってろ、な?」
 そうやって僕におあずけをくわせておきながら、兄は小皿に残っていたカレーに口をつけて僕の目の前でそれをいっきに飲み込んだ。それから兄は酔っぱらいのような呑気なしゃっくりを喉の奥で鳴らしたのだ。
「兄さん、」
「うん?」
 僕を見上げた兄の後頭部をつかんで、僕は兄の口にかぶりついた。目を丸く広げた兄の髪の毛をひっぱって顔を上向かせると、兄の口がもっと開いて僕の舌をそこに入れることができた。兄の中は思ったとおりにカレーの味がした。
 兄の手がじたばたと動くけれど、両手にあるおたまと小皿をどうにかしないかぎり僕を止めることはできない。兄のそれが目に煩いのでその体をコンロに押し付けて動きを封じ込めると、カレー鍋を後ろに背負った兄は腹筋と背筋を震わせて僕の重みを耐えるのが精一杯になった。
 奥に引っ込んだ兄の舌を探し当ててその上に僕のを重ねる。そこにもカレーの残り香があった。逃げ場を探してじっとしないその舌を捕まえておくため、兄の頭を両手で挟んでさらに強く口を押しあてた。どこにも落ち着くすきまを失くしてうろたえる兄の舌を、表も裏も丹念に舐め上げると、諦めたのか兄は抵抗をしなくなって、代わりに声にならない呻きを僕に聞かせた。
 ふと思いついて僕は兄の鼻をつまんでみた。しゃっくりを収めるのに息を止めることも有効なひとつの手らしい。兄の口は僕とつながっている。新しい空気はどうやっても兄の中には入り込めなかった。僕の呼吸を兄は奪おうとするけれど、僕はそれを兄に与えない。僕と兄のまざりあった唾液を飲むしか兄にはできないのだ。
 兄の髪の毛をつかんでいた手に汗が滴った。火にかかったカレーの熱に溶けたみたいに僕の腕にも兄の首にも汗が滑り落ちていく。息苦しさに目を細めて僕を睨む兄の視線にめまいがしそうだ。
 気がつくと兄の手に眼鏡を弾かれていた。宙に跳ねたそれがどこへいってしまったのか追いかけることはできなかった。急にぼやけた視界の中では、兄が、目がつぶれてしまうのではと心配になるほどに瞼を閉じ、これ以上ないくらいに顔を赤くして必死に堪えていた。
 いつのまに空になったのだろう兄の手のひらが僕の胸に届く。力の入らない平手で兄はそこを何度もたたいた。タッチアップ―――限界の合図だった。
 兄の頭に回していた手を外して、次に兄の舌を解放したあと、未練がましくその唇を吸いながら僕は兄の口を離れた。ようやく呼吸を取り戻した兄は、大きく口をあけたまま全身で息をする。そうして、いまだに鼻をつまんでいた僕の手を思いきり払いのけると、濡れて光るふたつの目を僕に向けた。
「ばか雪男!」
 叫ぶなり兄は僕に頭突きをくらわせた。のけぞらされた頭の中で僕はちかちかと灯る点が散らばっていくのを見た。
「いたいよ、兄さん―――」
「おまえ、おれをころす気か、ばかやろう!」
「おおげさだな」
「息できなかったんだぞ! ばか!」
「ばかばか言うなよ。ほら、しゃっくりはとまっただろ」
「へ?」
 兄はそれから大きく深呼吸をして、しばらくそこに静止した。僕を疑わしげに見つめながら待つことしばし、ゆっくりと兄の顔に笑みが広がっていった。
「やった、とまった!」
 歓喜してはしゃぐ兄を横目に、僕は飛ばされた眼鏡を探して膝を折り曲げた。
 床の上にあおむけに転がっていた眼鏡を見つけて拾い上げたとき、兄のものではない何かの気配を背後に感じて振り向き目をこらすと、人の姿にも似た小さな影が窓辺に佇んでいた。
「ウコバク?」
 眼鏡をかけてそこに見えたのは確かに彼だった。緑色した草のようなものを震えるほどに強く握りしめて仁王立ちしている彼は、顔に似合わず頬を薄赤に染めながら唇を真一文字に結んで、刺のある視線をまっすぐ僕に投げつけてくる。
 ウコバクの意味するそれを受けとめた僕は、つい抑えがきかなくなって、
「残念だったね」
 たっぷり彼に笑いかけていた。





オー・マイ・リビドー
(2011.07.10/08.26修正)(タイトル拝借:BALDWIN


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