ひとりになれる場所といったらすぐに思いつくのが屋上で、ドアを開けた先にがらんと広がる空間にはやっぱり誰もいなかった。太陽に照らされたコンクリートはもちろん熱い。けれど、ひとりの場所を確保できるならそれは俺にとってどうでもよかった。
 日陰を探しあてて壁際に座る。座ってから思い直して地べたに寝ころがった。あおむけになって見えた青空に浮かぶ雲が白くてまぶしい。ゆったりと形を変えながらどこかに向かって動くそのかたまりをしばらく眺めてみたけれど、おもしろいことはなにもなく。俺の体はさっきから汗とため息しか出していない。
 一限目が始まったばかりの教室を抜け出していた。おとなしく授業を受ける気分じゃとてもなくて、内容が分からないから? そうじゃない。なにを聞いてもなにを読んでもなにを見ても、それが俺を救ってはくれないのだ。俺の抱える苦しみを誰も解決してくれないし、どうすれば楽になるのか教えてもくれない。
 俺がこんなふうになったのは、ぜんぶ、ただひとりの人間のせいだった。頭のなかに思い浮かべるのはその人だけ。感じる心が最後にたどりつくのはただひとり。みっともないくらいぐるぐると、俺はそれにがんじがらめだ。
 考え煩うことなくてきとうに流されてあとかたもなく消えることができたならどんなにいいだろう。尽きない空をひたすら漂う雲の群れが心底うらやましかった。
「奥村、」
 名前を呼ばれて肩が大きくはねあがった。それは勝呂の声だった。 気配を消すのがうますぎやしないか。呼ばれるまで俺はそこに勝呂がいることに気づかなかった。心臓が尋常じゃない勢いで動いている。全身の血が脈打って体が震える。どうにかなってしまいそうでこわい。
 勝呂こそ、俺を苦しめる張本人だった。
 人の気も知らず勝呂は俺の視界に入りこんできて、俺はたまらず目を閉じた。勝呂を目の前にすると、勝呂の見えないところで悩むときよりも落ち込みかたはひどくなって、だから勝呂に会うのはいやだった。
 ―――なんて嘘だ、本当はいつだって会いたい。かなうなら、俺は、勝呂のそばにずっといたいんだ。
「さぼりとはええ身分やな」
「おまえこそ、授業は」
「腹がいとうてな、抜けてきたわ」
「ならここじゃねえだろ。保健室いけよ」
 体を起して壁に背中を預けると、その俺のとなりに勝呂は腰をおろした。思わず体がすくんでしまった俺の動揺が勝呂に伝わっていなければいい。
「嘘や、奥村」
「え?」
「腹痛やない、ほんまは、おまえを追ってきた」
 勝呂の声が近い。俺は、視線を足元においやったまま、動かすことができなかった。勝呂を意識しすぎて、考えるのも息をするのもなんだかおっくうだった。
「きいとるんか、奥村?」
「きいてる。けど、おまえは、俺と違ってちゃんとしてんだから、そんなくだらねえことすんなよ」
 成績優秀でまじめで、周りから信頼されて、責任感の強い勝呂が、どうでもいいことに流されてしまうのはいけない。
 ふと勝呂が長い息を吐くのが聞こえた。
「くだらんかどうかは俺が決める。ほんで、ここに来たんはちっともくだらんことやない」
 勝呂の放つ言葉にはいつも力があった。つよさとやさしさのこもったそれは、俺をなんども救いあげ、勇気づけ、信じさせた。勝呂からもらった言葉は、俺の大事なたからもので、いまの俺を支えている。俺を生かしてくれている。
「おまえに心配されんでも大丈夫や」
「あっそ。ていうか、心配してねえし」
 俺は立ち上がって服の汚れをはらうと、戻るとひとこと告げて勝呂に背を向けた。
「奥村、」
 呼ばれたけれど振りむかずに無言を返す。
「俺、今日、誕生日なんや」
「―――へえ、そりゃ知らなかった」
 嘘ならばすらすらとよく出てくる。本当のことはなにひとつ言葉にできないというのに。
 今日が勝呂の生まれた日だと知らないわけがない。祝いの言葉なんて俺が言うには似合わないけれど、言えることなら言いたかった。おめでとうじゃなくて、生まれてきてくれてありがとう、と。だってこうして俺はおまえに会うことができたから。
「おまえ、祝ってくれるか」
「なにを」
「せやから俺の誕生日を」
 勝呂が立ちあがる気配がした。俺は振り返ることができず、かといってその場を離れることもできず、立ち尽くした。
「なあ奥村―――」
「あ、あくまに祝ってもらったって、なんもいいことねえよ」
 だめだ。勝呂の前だと俺はいやな自分になる。どんどん自分を嫌いになっていく。思いどおりにいかない自分をとめられない。どうしていいか分からない。本当のことが伝わってしまうのがこわい。
 俺は一歩足を踏み出した。勝呂から遠ざかるために。
「待てや」
 勝呂に腕をとられて体は簡単に動かなくなった。じかに触られた肌が熱い。苦しい。
「はなせ―――」
「おまえ最近、俺のこと避けとるな」
 低い声が俺にささる。
「言いたいことあるんやったら、ちゃんと言え」
 俺はうつむいて、ただ首をよこにふった。
 言えるわけがない。勝呂に拒まれるのがこわい。受け入れてもらえなくなるのがこわい。言ってしまったら、きっとだめになる。そしたらもう元には戻せないんだ。あたってくだけろなんて無謀な賭けみたいなことはできない。勝呂を失いたくないから。高望みはしない。そうすれば少しの満足は得られる。大きなものをあきらめれば、ゼロにはならない、残るものはある。だからもう今のままでもいい。
 勝呂の足が見えた。俺の前に立っていた。
「奥村、黙っとったらなんも変わらんぞ」
 頼むからあおらないでくれ、おさえるのがつらいんだ。言ってしまって楽になりたいと逃げる自分を押し込めるのに、いつまでもは耐えられない。我慢するのはあんまり慣れていないから。でもだめだ。言うのはだめだ。勝呂のそばにいられなくなる。それだけはぜったいにいやだ。
 こんなに苦しいのなら勝呂への気持ちなんてなければよかった。こんなにやわな自分が簡単にその気持ちを持ってはいけなかった。でも勝呂がいなければ、勝呂がいたから俺は―――
 勝呂の手が俺の顔を持ち上げた。目にうつるすべてがにじんで勝呂の顔がはっきり見えない。言葉にならない思いがかたちを変えてあふれだしている。頬を流れるものが静かにおちて俺をぬらす。
「ちゃんと聞いたるから、なかったことにだけはすな」
 やさしい声が耳にかすんだ。のどからおえつがこみあげてきて、ちゃんと息ができない。こんなに近くにいる勝呂に手の届かない痛みが俺をつぶそうとしている。
「ほら、言うてみい」
 本当は勝呂のことをもっと知りたい。
 もっと仲良くなりたい。
 ずっと一緒にいたい。
 俺のことをもっとみてほしい。
 俺ともっと一緒にいてほしい。
 俺のことを好きになってほしい。
「奥村、」
 首をふりつづける俺をあやすように勝呂は俺を抱きしめた。勝呂のなかに俺の涙が吸い込まれてゆく。
 なあ勝呂、俺はぜんぜん足りないんだ。
 なのにこわい、おまえにそれを求めるのが。

 どうしようもないよくばりで臆病な俺を、たすけて、すぐろ―――

「ほんまに、頑固もんやなあ、おまえは」





きみがすき
(2011.08.21)


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