台所で水を調達して部屋に戻ってみれば、いつのまにか兄さんは机からいなくなっていて、代わりにベッドに仰向けになって僕の漫画を読んでいた。
 僕が戻ってきたことに気づきもしないで、めったに見ない真剣な顔して読み続けているから、僕はなんだかおもしろくなくて、小言のひとつでも言いたくなる。
「ねえ、課題は?」
「んー」
「ちゃんと終わったの?」
「ん」
 予想外の返事にちょっと驚いて、机の上で開きっぱなしになっていた兄さんのノートを見た。答えがあっているかどうかは別にしても、とりあえずノートはぜんぶ埋まっている。―――それはそれでなんだかおもしろくない、本当はよくやったと喜ぶべきところなんだろうけれど。
 僕は、わざと乱暴に兄さんのベッドに腰を下ろした。ベッドは揺れて兄さんの体も揺れたのに、そんなのは兄さんにとってどうってことはないらしい。兄さんの目は漫画に釘付けだ。
「ほら、水」
「んー」
 声をかけても生返事で、だから僕は兄さんと漫画の間にペットボトルを割り込ませてやった。
「じゃま」
 と、にべもなく兄さんの手にはねのけられてかちんときた。だって、水を持ってきてと僕に頼んだのは兄さんだ。兄さんのお願いだからきいたのに、そういうふうに好意をないがしろにする態度は僕は気に入らない。
 兄さんのためにと運んできたそのペットボトルを開けて僕は水を飲んだ。よく冷えていておいしいとは思うけれど、いちど不機嫌になった僕の体をなだめてくれるほどじゃない。
「おい、なに飲んでんだよ」
 顔を上げた兄さんと目が合った。やっとこっちを向いたと思ったら、ずいぶんとねちっこい睨みをきかせてくれる。
「それ、おれの水だぞ」
「いらないのかと思って」
「いる。勝手に飲むなよ」
 僕が悪いみたいに言うけれど、勝手はどっちだ。さっきは邪魔だと言っていらないそぶりを見せたくせに、僕が飲むと目ざとく見つけて文句を言う。
「なあ、新しいの持ってきて」
「は?」
「それ、おまえにやるから」
「いらない。ていうか、まだ残ってるからこれ飲めばいいだろ」
「やだ。おまえが口つけたもん」
 いつも僕の食べ残しを平気で食べるような兄さんがなにを今さら。僕が口をつけたからって水は水、なにが変わるっていうんだ。
「新しいのがほしいんなら自分で取りに行けよ」
「むり。おれ今いそがしいし」
 そう言って兄さんは一方的に話を切ると、よろしくと一言つけ加えてまた漫画に目を戻した。
 理不尽だ。なんていうわがままだ。
 もしかして、たかが課題を終わらせたぐらいでつけあがっているんじゃないだろうな。それとも、僕が兄さんのことを好きだっていう、それを逆手にとって、なにをしても僕に許されるとでも思っているんだろうか。
 冗談じゃない。僕はそこまで気が長くもないし、お人よしでもない。こんな顎で使われるような扱いを受けて、まるでバイ菌みたいなふうに言われて、それでも兄にとって都合のいい弟でいるわけがない。
 僕は兄さんの手から力づくで漫画を取り上げると、それを遠くに放り投げた。
「なにすんだ、こら」
「黙れ」
 僕のシャツの襟を両手で掴み上げて怒りをぶつけてくる兄さんに負けないよう、僕も静かに気迫をみなぎらせて兄さんを見下ろした。体勢的には僕のほうが有利なわけで、仰向けに横になったままの兄さんにいち早くまたがってマウントポジションを取る。あとは腕をおさえつければ兄さんの自由はきかなくなって僕の思いどおりになるはず、抵抗する気なら縛ってみるのもありだろう。
 ところが、僕の胸倉を掴んでいた兄さんの手からふと力が抜けた。その手はやがてゆっくりと僕の顔へと伸ばされて、やさしく僕の頬に触れる。思いもよらないことに気を削がれてしまった僕は、兄さんを見下ろしたまま固まるしかなかった。急にどうしたんだろう、まだ手荒にしてはいないつもりだけれど。
「ごめんな、雪男」
「え……?」
「今のは兄ちゃんが悪かった。やなかんじだったよな」
 さっきまでの悪態が嘘のように兄さんの顔は申し訳なさそうにしゅんとして、見ている僕のほうが、そんな顔をさせてごめん、と謝りたくなってしまうくらいだ。
「水、ありがとな」
 言って兄さんは首を持ち上げると、僕の唇に軽やかにキスをした。
 兄さんの唇がそっと離れていくのを僕は呆然と見送る。
 頭の中が正直に混乱していた。兄さんの突然の変わりようにびっくりしてついていけないのと、兄さんのくれたキスの余韻にとろけそうになるのと、僕を見る兄さんのはにかんだ笑顔がかわいいのと、これで今までのことをリカバーしようとする兄さんはずるいなあと思うけれどやっぱり嬉しいのと。
 でも結局はたまらなくなって僕は兄さんを腕の中にひしと掻き抱いた。
「僕もごめん。おとなげなかったね」
「ん、気にするな」
「兄さん―――」
 弾みのついた勢いのまま兄さんの唇を貪ろうと顔を近づけた。けれどそれはすぐに兄さんの手のひらに阻まれてしまう。ここはそういう雰囲気でそういう流れだと思ったのに、違ったんだろうか。
「だめ?」
「ん、そのまえに雪男に頼みがある」
「なに? なんでも言って」
「おれ、ゴリゴリ君食べたい」
「え?」
「水はもういいからさ、ゴリゴリ君」
「でも、きのう兄さんが食べたので最後だからストックはないよ」
「だったら買ってきて」
 おねがい、と甘い声におねだりされて思わず頷きそうになる。けれど僕はそれをこらえた。だって、ゴリゴリ君を買いに出ればしばらく兄さんとは離ればなれになる、僕はいっときでも兄さんのそばを離れたくなかった。
 ああでも、兄さんのお願いを叶えてあげたいという気持ちもあるわけで。
 葛藤に気を取られていると、シャツの裾から兄さんの手がするすると入ってきた。
「兄さん……?」
 上へと這いあがってきた兄さんの手は僕の胸を撫で始めて、そこにある二つの突起をつまんだりこねたり動いた。
「んっ、」
 気持ちのいい刺激に声が漏れるのはしょうがない。兄さんは艶めいた笑みを深くすると、固くなった僕の乳首にシャツの上から舌を這わせた。そこだけじんわりとシャツが濡れて、温かく湿った布が敏感になった突起にはりつくから、いつもよりいやらしい気分になる。
 と、いきなり下半身を襲った衝撃に僕は身を固くした。
 兄さんが立てた膝を僕の股間にあてがったのだ。
「兄さん!?」
「あとで続きしてやるから、早くゴリゴリ君買ってこいよ」
 言いながら兄さんの膝は僕のものを遠慮なく押し続ける。快感につながるような優しい動きでもなく、かといって痛みを伴うような乱暴さもなく。
「ゴリゴリ君食べたあとなら、雪男のお願いきいてやってもいいぜ」
 不敵に目を細めた兄さんはそう言って僕にささやいた。
 兄さんを見下ろしているのは確かに僕なのに、まるで見下ろされているのが僕のようだ。
「―――約束だからね、兄さん」
 僕は兄さんから離れて立ち上がると、床にあった鞄の中から財布をつかみ上げた。
 シャツは乳首のところだけ妙に濡れて透けているし、ハーフパンツの下に隠れた股間はごまかせない程度に膨らんではいるけれど、それどころじゃない。さっさと行ってゴリゴリ君を買って、兄さんに僕のお願いをあれやこれやきいてもらうんだから。
「おい待て、雪男」
 靴を履き終えてドアを開けようとしたとき、兄さんに呼びとめられた。はやる気持ちに水をさされて、ついぎすぎすと後ろを振り返る。
「なに?」
「それ、とって」
 兄さんが指さしたのはさっき僕が取り上げた漫画だった。僕の足元で中身をひらいたままうつ伏せになって床に沈んでいた。
 僕はせっかく履いた靴を脱いで、拾い上げた漫画を兄さんのところまで運んだ。
「ほら」
「ん」
 僕はもう一度靴を履きなおしてドアを開けた。
 戻ってきたら必ず僕に夢中にさせてやる。
 漫画に目を奪われて見送りすらしない兄さんを横目に僕は部屋を出た。





ほれた弱みってやつ
(2011.10.30)


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