雪男を探して公園までクロと一緒にたどったばかりの道を、こんどは雪男とクロと俺とで寮に向かって歩いていた。
 クロをさらおうとするくらい乱暴だった風はすっかりおとなしくなって、夜の冷たさだけがそこに取り残されている。俺は、腕に抱いたクロの温かさが心地よくて、俺にとらわれることをむずがるクロをなかなか放してやることができなかった。
 となりを歩く雪男は、いつもの重ったるいコートをぬいで身軽になっていた。ネクタイをはずしてシャツもゆったりとくつろげた姿は、まるっきり会社帰りのサラリーマンで、目の下にうっすらとできた隈も、雪男をくたびれた大人なんだか子供なんだかよくわからないあいまいなものに見せている。ほくろとめがねが雪男の一部として当たり前のようにそこにあるのと同じ、そのなかなか消えない隈も、俺はいつのまにか見慣れてしまった。
「なあ、かばん、持ってやろうか?」
「ん、いや、いいよ」
「じゃ、そのコート―――」
「大丈夫、自分で持てるから」
 雪男は俺に手も口も最後まで出させないまま、かばんとコートを片手にまとめて、俺の手の届かないところに遠ざけた。それがあまりにためらいのない動作だったから、俺はなんとなくさびしいようなかなしいような気持ちになった。
「ほら、もうすぐ着くし」
 雪男が指さすほうには寮の入口がある。けれどもそこは目をこらしてやっと見えるくらいの真っ暗で、外灯はもとから壊れていて役立たず、窓から漏れる明かりなんていうのも見当たらない。俺たちを迎え入れようという気がちっとも見えない建物は、入りたいなら入ってこいとでもいうようにふてぶてしくそこにあった。
「ほとんどお化けやしきだな」
「だね」
 俺たちの帰る場所は、実際には、お化けじゃなくて人間と猫又と悪魔が住むカオスだ。誰にも干渉されない、誰にも気にされない、誰もいない、俺たちだけの、風変わりで居心地のいい、閉ざされた空間だった。
「ねえ兄さん、僕は、夜帰るとき、ここから寮を眺めるのが好きなんだ」
 まるで詩の一行でも読んで聞かせるように雪男が言った。
「眺めるっていっても、暗くてなんも見えねえけど?」
「うん、今はね。でも普段は違う。ちゃんと見える。だってあそこにはいつも兄さんがいるから」
「おれ?」
「そう」
 雪男はすこし顔を上げると、寮の窓へと視線をとばした。
「部屋の電気がついてるときは、兄さんどこまで課題すすんだかなあって思う。台所が明るいときは、今日の晩ごはんなんだろうってわくわくするんだ。部屋も台所も暗いときはね、浴室の窓からオレンジ色の光が見えるんだよ。で、ああ兄さんはお風呂に入ってるんだなあ、クロも一緒かなあって考えたりしてさ」
 雪男がクロに笑いかけると、それまでじっとしていたクロは、名前がでてきて嬉しいのか、照れくさそうに鼻を鳴らした。
「あそこに兄さんがいるのを感じてほっとする」
 つぶやくように言って雪男は俺の腕におさまっているクロの頭をなでた。その手つきのやさしさがクロを通して俺にも伝わってくる。
「僕の帰るところは兄さんだ」
 クロから俺へと目を移した雪男は、そして俺に笑って見せた。
 つくろいのない雪男の笑顔に俺も笑顔を返した。けれど、そうしながらも俺は、こみあげてくる気持ちがあんまりいいものじゃないことに気がついていた。
 こんなに素直にまっすぐに雪男が自分の思いを言葉にするなんていつもと違う。雪男のまわりには日常的に分厚くて頑なな「壁」があって、その中にある雪男の本当に触れるのは俺でさえ簡単にはいかないのに、いまはその壁がほとんど見当たらない。だから、俺がむかしから知っている、やわらかくて感じやすくてもろい雪男がむきだしになっている。もちろん、壁なんかなくなって本当の雪男が見えるのはよいことだと思うけれど、でも、雪男がどれだけの思いでそれをつくりあげているのかも俺は分かっているつもりだから、その壁がなくなっていることに不安を感じてしまう。
 壁を保つのがおっくうなくらい疲れているんだろうか。そんなふうに無理をさせているのはやっぱり俺のことが原因なんだろうか。雪男に直接きいてみたかった。そしてその答えがどうであろうと、やっぱり俺は「俺のことは大丈夫、だからおまえは心配しなくていい」と伝えたかった。けれどそれをすれば雪男はまた余計に気をつかうんだろう。だから俺はなにも言えない。雪男は、俺がそういうことに気づいていないほうがきっと安心できるんだろうし、俺がへたに心配しないほうがたぶん楽なんだと思う。
 クロを抱えていた腕をゆるめると、思ったとおりクロはそこを抜け出して俺の頭に駆けのぼる。ぽっかりとクロの体温がぬけた俺のふところは急に涼しくなった。
 俺は、そうして、空いた手のひらを雪男の手のひらに重ねた。
 雪男の体が小さく動いて、いったいなんのつもり? とその目が俺に問いかける。
「たまには、な?」
 雪男はぱちぱちとまばたきをしたあとうなずいて、すこしもたたないうちに雪男のほうから俺の手をつなぎなおしてくれた。
 俺ののみこんだ思いがぜんぶこの手をつたわって雪男に届いてくれればいいのに。そんなずるい願いをこめて俺は雪男の手をにぎりしめた。





本当に、ほんとのところは、
(2011.08.30)(タイトル拝借:群青三メートル手前


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