「ゆきお!」
 とつぜん背後で聞こえた大きな音に、雪男の肩は思わず揺れた。
「ゆきおー!」
 勢いよくドアを開けながら叫んだのは燐だ。
 燐は、裸足でぺたぺた部屋の中へ入ってくる。
「ゆきおっ!」
 そんなに大声で呼ばなくても聞こえている。雪男は、けれど、わざと聞こえないふりでふりむかなかった。せっかく報告書作りに集中していたのに、それが切れたことの腹いせと、不意打ちに驚いて肩が跳ねあがってしまったことの恥ずかしさによるやつあたりだ。
「ゆきおぅ!」
 やけにしつこい。それにうるさい。
「ゆきおってば!」
「なんだよもうっ」
 我慢できずに雪男はうしろをふりかえった。
 燐は、雪男のベッドに座ろうとしていて、雪男のほうを見ていなかった。
 さんざん人のことを呼んでおいてなんなのそれ。ただ名前を呼んだだけなんて言ったらどうしてやろう。そんな雪男のちょっとした怒りは、燐のきらきらにこにこした笑顔にすぐに吸収された。
「ゆきお」
「―――なに?」
 燐の満面の笑みの理由が分からなくて雪男の声は低くなる。
「ほら、ゆきお、」
 手招きしながら燐は雪男を呼んだ。
「こっちゃこい」
「は?」
「いいから、こっち」
 燐は、座っているベッドの上をぽんぽんとたたいて見せる。
 さっきから燐は『ゆきお』と『こっち』しか言っていない。しかも、ひとりで勝手に上機嫌で、なんというか不気味だ。兄にいったいなにが起こったのだろうと困惑気味に燐をみつめる雪男は、雪男の出方をじっと待つ燐のまなざしにさらされた。
 互いにみつめあうことしばし。
 やれやれと動いたのは雪男だった。
 雪男は机を離れると、ベッドに座る燐に近づいた。
「なんなの、にいさん?」
「ん、こっち」
 燐の手につかまれて雪男は燐の前、ベッドの縁に座らされた。
「これでいいの?」
「ん」
 自分の思いどおりになって満足したのか、燐は短い返事だけをよこした。
 雪男は、肩越しに燐の様子をうかがおうとしたけれども、ふいに燐が背中にくっついてきたので、顔をまっすぐに戻した。うしろから伸びてきたふたつの腕が雪男の胸をそのなかに閉じこめた。
「なにこれ―――」
「ん」
 燐の頬が、つぶれるほどぺっとりと雪男の背中にあたっている。
「あついよ」
「ん」
 それでも燐は雪男をぎゅうぎゅうに抱きしめたままだ。
「ゆきお、」
「なあに」
「すきだ」
「―――」
「すき」
「―――」
「すき!」
「―――きこえてる」
「ん、だいすき」
「わかったから、もういいって」
「だめ、おまえ、まだぜんぜんわかってねえもん」
 駄々をこねるように燐はぐりぐりと頭を雪男の背中に押しつけた。
 燐の体がすきまなく雪男に重なっている。
 ぴったりと触れあうのは暑かったし、寄りそわれて重かったけれども、それ以上にこそばゆくてあったかくて、雪男はちょっとだけ燐のほうに体の重みを預けた。
「すきだ、ゆきお」
「―――うん」
「すきすき」
「―――」
「すきー!」
「しつこいんだよっ」
 雪男が声を荒げると燐は黙った。
 と、雪男の背中にごつんとした柔らかい衝撃があった。燐の頭突きだった。
 きっと燐は、むくれて頬をふくらませているに違いない。
「ねえにいさん、なんでまえからぎゅってしないの?」
「だって、はずかしいだろ」
 これだけ好き好き言っているくせに、なにを今さら、なぜそこを恥ずかしがる。
 雪男は笑いながらすばやく燐の腕から抜け出して体を反転させた。
「ゆきお?」
 動きに追いつけないで目をしばたかせている燐と向かいあった雪男は、勢いよく燐の胸にタックルした。
「うぉっ」
 燐は、飛びこんできた雪男を受けとめきれず、うしろに倒れた。雪男も一緒になって倒れると、ベッドにあおむけになった燐の上に転がった。
「にいさん、」
「ん?」
「ぼくもすき」
 雪男は、燐の胸に耳をあてて心臓の音を聞きながら、燐の背中に腕をまわした。ぎゅっと抱きしめると、燐の鼓動はもっとはっきり聞こえるようになった。
「だいすき、にいさん」
「ん」
「ほんとにすきだよ」
「ん、わかってる」
「―――うそ」
「うそじゃない」
 燐の手のひらが雪男の頭を撫でた。その指に髪をすかれるのが気持ちいい。
「ほんとうに、ほんとうのだいすきなんだ」
 いったいどれだけ兄には伝わっているのだろうと思う。どんなに言葉を重ねても、自分のぜんぶの気持ちを伝えるには足りない。こんなにいっぱいあるのにちゃんと見せられないのがもどかしい。
「ゆきお、」
「うん」
「あいしてる」
 びくりと肩を揺らして雪男は顔を上げた。
 なんという不意打ちだ。ずるいよ兄さん。
 雪男のすねた顔を見て燐は笑う。
 そっぽを向いた雪男は、それでも、燐に聞こえるようにつぶやいた。
「ぼくも、あいしてるよ、にいさん」





すきすき
(2011.09.14)


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