ソファの上で眠っていた燐は、喉の渇きによって意識を取り戻した。
 久しぶりに瞼を開けてみれば、目に眩しい光を直に浴びて視界は真っ白に覆われた。
 明るさに慣れると、高い天井の全面に春夏秋冬の情景が事細かに描かれているのが見える。四面に分けられた広い白地のカンバスには、季節ごとに違う空模様を背景に四季折々の自然が表され、とりわけ種類の豊富な花の絵は、多彩な色が惜しげもなく使われて、見事なものだった。
 ソファとローテーブルの間にはいつのまにか距離ができていた。テーブルの位置に変わりはないので、ソファのほうがずれ動いてしまったらしい。絨毯の上には銀のセロファンに包まれたチョコレートボールがいくつか転がっていて、もとの円形は無残にも潰されていた。
 体を起こそうとして走った腰の痛みに燐は起き上がるのを諦めた。再びソファに体を沈めた拍子にボタンの外れて前の開いたシャツが肩から滑り落ち、袖だけが腕に残った。下半身は剥き出しのままで、ズボンと下着のぐちゃぐちゃに絡まったものがテーブルの足元に落ちていた。
 そのように燐を辱めた張本人であるメフィストはといえば、部屋を見渡すかぎりどこにも姿は見えなかった。彼がいつ傍を離れたのかは分からない。燐自身、メフィストに見境なく体を貪られているうちに気を失って、今に至る。けれど、メフィストは見当たらなくとも、彼の名残りは生々しく燐の中に居座っていた。注がれたメフィストの体液がいまだ内部に留まっているのである。その感覚は、実際に彼を己の深奥に受け入れたのだということをいつまでも燐に意識させた。
 燐は、腕から抜き取ったシャツを放り捨て、ソファの背もたれに向き合うように体を横に倒すと、尻尾を絡めた背中を丸め、膝を折りたたんで、再び目を閉じた。


 たくさんの百合の花で埋め尽くされた祭壇の上に彼女の遺影は立っていた。黒縁の額の中に収められた写真の中でも、彼女は生きていたときと同じ笑顔でふたつの小さなえくぼを見せていた。
 確かに彼女は杜山しえみの魂を宿した生まれ変わりではあったけれども、姿形も声も、仕草も話し方も、性格も好みも、燐が知っている過去のしえみとは別人だった。草花をこよなく愛したしえみとは違い、彼女自身は緑に心を砕くことはなかった。夫にプロポーズされた時にもらった百合をその後も自分の好きな花として大事に思っているような、そんな可愛らしいひとではあったけれども。
 結局彼女は最後まで燐に一方的に見られていただけで、燐を知ることのないまま逝った。
 彼女が生きている間、燐は、その人生に係るようなことを何ひとつしなかった。話しかけることもせず姿を現すこともせず、ひたすら彼女を見守るだけ。存在を悟られないよう器用に姿を隠しながら、けれどできるだけ傍に近づいて、彼女が死ぬときまでを見届けた。
 彼女に気づかれてはならないと燐自身が決めたそれは、暇つぶしに過ぎないその行為を続けるための燐なりの趣向でありルールでもあった。わざわざ葬式に出向いたのは、彼女との別れを惜しんだからというよりも、最後まで見守ることをやり遂げた己に目に見える区切りを与えるためであって、これもまたひとつの形式だった。
 魂が同じとはいっても、燐がかつて愛した人たちの生まれ変わりは、見た目や性質だけでなく記憶も当時のものを引き継いでいない。だから生まれ変わりの者たちは、燐の本当に大切だった彼らとは別の、絶対的に違う存在なのである。燐はそのことをいつも己に繰り返し言い聞かせていた。ずっと昔、転生というものを知ったころに出会った藤本獅郎の転生者との苦い経験が燐に教えてくれたのだ。何も憶えていない生まれ変わりの者に、いつかは己のことを思い出してくれるだろうかと期待をかけたり、少しでもいいから思い出してほしいと希望を待ったりしても意味がないということを。
 杜山しえみの生まれ変わりである彼女の全うした91年の寿命のうち半分以上の年月を燐は見守った。けれども、その彼女からいつも透けて見えていたのは燐自身の過去であり、それは燐にとって懐かしさと温かさに満ちた幸福である以上に、憎悪と自虐を伴う痛みだった。
 何よりも大切に思っていた奥村雪男と、大好きだった仲間たちと。彼らと燐とでは、時間の質に大きな隔たりがあった。彼らは目に見えて成長し老いたけれども、その間に燐の体が変化することはなく、ひとり時間が止まってしまった燐の前を、ただ日々が、周りが、燐を置いて通り過ぎていった。
 愛しい人たちが失われていくのをくい止めることはできず、なすすべなく見送ることしかできなかった燐は、無情にも愛する人たちを奪い、己に悲壮な喪失感ばかりを与える時間の流れを憎んだ。変化の不平等をもたらし続ける悪魔の体と、それを生まれ持ってしまった己のさだめを呪った。
 憎しみに憎しみを重ね、憎しみ抜いたあとに燐は諦めた。時間を止めようなどと本気で考えた己が馬鹿なのだと、流れに抵抗できないからといって逆恨みのように時間を相手に当り散らした愚を嘲笑い、詰り倒した。やがてそれにも飽きがくる。
 そうして憎しみも自己嫌悪も過ぎ去った今、燐に残った思いはたったひとつ。それをのぞいて燐には何もなくなった。


 肌に感じた寒気をやりすごそうとソファに横になったまま身じろいだ燐は、尻の合間から温かくぬめったものがこぼれ出るのを感じた。中に溜まっていたメフィストの精液が腿をつたって流れていくいやな感触を、眉をひそめてやり過ごす。それでもなお、外に出たものが全部というわけではなく、燐の体にはまだいくらかメフィストは残っていた。
 燐は後ろに手を伸ばすと、息をつめながら己の後孔に指を差し入れた。手っ取り早くきれいに出してしまいたいけれど、奥のほうまで指を入れるのには気持ち的にも感覚的にもためらいがあって、なかなか思うように掻き出せない。この後始末だけは、何度メフィストと行為に及んでも慣れるものではなかった。
 いっそこのまま放っておこうかと思い始めたときだった。
「なかなかに、よい眺めだ」
 メフィストの声が頭上から降ってきて、燐は動かしていた指を止めた。
 いったいどこから現れたのか、音も気配もなかったというのに。
 横目で見上げた燐は、濃紺の浴衣をゆるく身に着けたメフィストを視界に入れると、面白がるような顔つきで見下ろしてくるその男を一瞥して顔を逸らした。中に残ったものの処理はもういい、一刻も早く起き上がらねばと思う。
 と、背後からメフィストに肩を押さえつけられ、後ろの穴に突っ込んでいた指ごと腕を引っ張り上げられて、燐は思わず後ろを振り返った。
「なにを―――ぁっ、」
 空いた燐のそこに、強引に押し入ってくるものがある。それが何かはすぐに分かった。
「指、やめろ、メフィスト、」
「そう遠慮せずとも。お手伝いしますよ」
「いい、自分で―――」
 割り入ってくる異物の容赦のない動きに燐は堪らず息をのんだ。その耳元へ、身を屈ませたメフィストが口を寄せる。
「私がいるのにひとり遊びとは感心しませんね」
「遊んでない。中のを出そうとした、だ、け―――」
「おやそうですか。私はてっきり、さっきの続きでも始めたのかと思いましたよ」
「ちがっ、う、ぁっ、」
 もう二本増えたメフィストの指は、残滓を掻き出すどころかそれを穴の通りに塗り込めるように燐の中でうごめいた。
「んぁ、あっ、あっ、あぁっ―――」
 最も感じる場所を撫でさする指の、力の加減を自在に変えることなどメフィストはよく心得ていて、そこをいい具合に刺激されるたび燐は声をあげざるを得なかった。勝手に動く腰がメフィストの指を奥へと誘うのを止めることもできない。
 メフィストを制止するために伸ばしていた燐の後ろ手は、今はただメフィストに縋りつくように、その腕を握っていた。目には見えないけれど彼は愉快そうに顔を歪ませているに違いない。
「あっ、もっ、だめっ、だ、」
「ん、わかりました」
 メフィストはあっさり燐の中から指を引き抜いた。柔らかく解れていた穴の肉がゆっくりと隙間を閉じていく。一方で、メフィストの腕は燐の手から離れていった。
 燐は長い息を吐き出し、背中をよりいっそう丸めると、すでに勃ち上がってどうしようもなく張り詰めてしまっている己の性器に手を這わせ、ひっそりと扱き始めた。
 メフィストの気配はいまだに背後にある。恐らくこの自慰も見下ろされているのだろう。けれど、だからといって昂りを解放しないでは気がおかしくなりそうだった。
 今さらメフィストに隠さなければならないものはない。どんな醜態もどんな恥もこの男には見られてきたし、実際にそうなるよう燐に施してきたのはメフィスト自身なのだ。メフィストとの付き合いは、燐が悪魔に覚醒してからの長い長いものである。己で知るのとはまた違う奥村燐を彼は見て知っているはずだ。もしかしたらメフィストに知らないことはないのかもしれない。
 朦朧としつつある意識を、前の屹立に集中させていた燐は、だから抵抗する間を失った。ソファから絨毯の上へそのまま引きずり落とされたかと思うと、後ろから片足を持ち上げられ、露わになった後孔に熱の塊をあてがわれていた。
「メフィストっ」
「だから、ひとり遊びはだめだと言ってるでしょう?」
 ぐううと押し入ってきたメフィストの硬い性器に合わせて中が拡げられていく。急激な熱い痛みから逃げようとする燐の背面をメフィストは両手で捕らえ、背後からいっきに穴を穿った。
「っあぁっ、」
 燐の背中が弓なりにしなる。
 首は仰け反り、顎が浮いた。
 噛み締めた奥歯からは、声にならない息が漏れた。
 メフィストは燐の体を思いやって優しく動くようなことはしない。
 燐の全部を揺るがすように大きく腰を打ちつけてくる。
 それぐらい気を使われないのでいいと燐は思う。激しければ激しいほど、その間は思考の余地がなくなって、ただ体を満たす気持ちよさだけに浸っていられた。澱みきった理性や自我は揺さぶられて散り散りにどこかへ飛んでいく。メフィストに与えられる快感にすべてを委ねて己を失くすことで燐は少しの楽を得られるのだった。それがずっと続くものではないことも、終わったあとには新たな虚しさが空虚な己に積もっていくだけだということも分かってはいるけれど。
 燐は肩越しに後ろを振り向いた。浴衣の袖から出ている青白い腕だけが、にじんだ視界に入った。
「はっ、あっ、メフィ、ス、ト―――」
 その顔を見たいと思うのに、首が上手く後ろに回らず、どうしてもそれを捉えることができない。
「っメ、フィストっ」
 叫ぶようにして彼を呼んだ声は、すぐに向こうから重なってきたメフィストの口に吸い込まれた。潤みを増す目の前に、望んだとおりメフィストの顔が見えて、燐は満足した。
 深く口づけていたメフィストの唇がやがて離れていこうとするのを、燐は己の舌を伸ばして引きとめた。メフィストににんまりと笑われたので、少しは彼を楽しませているらしいと知る。
 メフィストはそれでも無理やり燐の舌から離れると、その腰を掴んで燐の体をぐるりと仰向けにさせ、腿の上に燐を抱え上げた。
「ひ、あぁっ、」
 メフィストの性器を咥えたままの下の穴がぐちゅりとひときわ大きな音を立てて、燐の悲鳴に重なった。膨れあがった燐のものからは白濁が弾け飛び、メフィストの黒い腰帯を汚した。
「んっ、あっ、あっ、あっ、あっ―――」
 メフィストに跨る形となり、体の重みがメフィスト自身を奥の奥まで導く。そのせいで生じた強すぎる刺激は燐を苛み、射精したばかりの性器はまた勃起を始めていた。それに気づいたメフィストが燐よりも先に手を伸ばし、手のひらの中に握りこんだ。
「っ、ぅ、ン―――」
 燐はメフィストの首に腕を回すと、浴衣の肌蹴た肩に顔を埋め、制御できない喘ぎとせりあがってくる快感のうねりを押し殺した。
「―――我慢はするものじゃない」
 囁きを耳に注がれて燐はゆっくりと頭をもたげた。頬にメフィストの鼻と唇が触れる。そのままそこに惹かれるようにして己の唇を彼の口に押し当てると、燐の呻きはすべてメフィストにのまれていった。


*****


 メフィストが新しく与えたシャツには手をつけず、燐は、放置されていた皺だらけのものを掴んで裸体に羽織った。手に力が入らないのかボタンをなかなかとめられないで、もどかしげに指先を動かしている。
 燐を元の着衣の姿に戻すことなどメフィストがいつもの言葉を唱えればたやすく成るけれども、それでは燐のもたつく姿を眺める楽しみがなくなってしまう。だからメフィストは、その代わりとでもいうように指を鳴らして、汚れたソファと絨毯を一瞬にして新しいものに取り替えた。同じくテーブルの上の乱れもきれいに整えると、いれたての紅茶と新しいお菓子の皿を揃えた。
 絨毯に座ったままいまだにシャツのボタンと格闘する燐をメフィスト自ら持ち上げてソファに座らせる。抵抗がないのはよほど疲れているか眠いからなのだろう。その口元に紅茶の入ったカップをあてがい飲ませようとしたところが、紅茶が唇に触れた瞬間、燐は大きく目を見開いた。
「あつい」
「おや、失礼」
 悪びれなく言うメフィストを横目に燐はボタンをすべてとめ終えると、カップを受け取り、冷ましてから紅茶に口をつけた。ごくりごくりと水を飲むように勢いよく喉に流している。あっという間にカップは空になり、メフィストはおかわりを告げられた。さっきまでさんざん喘いでいたせいで喉が渇いているといったところか。
 二杯目を燐に与えたあとでメフィストは、テーブルの上に置かれている蓋のついた小さな箱を手元に引き寄せた。
「これを、奥村くん、」
 メフィストは、箱の中から取り出した赤い包みを燐の目の前にかざした。
 じっと見ていた燐は、その赤いものが何であるのか思い当たったらしく、急に目を逸らしてメフィストを見据えた。
「いらないと何度も言ったはずだ」
「ああ、そうでしたね」
 呟きながらメフィストは赤い包みを箱の中に戻した。
 それは燐の命を終わらせることのできる特別の薬だった。
 燐がまだ時間の流れに苛烈な憎悪を抱き、悪魔である自分を完全に呪っていた頃、そこまでの気持ちがあるのならと、メフィストは燐にその薬の存在を伝えた。燐ほどの悪魔なら誰かに傷つけられて死ぬようなこともない。だから終わらせることができるのは燐自身しかいない。望めば、悪魔でも死に至らしめるその薬が燐に最期をくれるのだと。
 燐が今夜のような弱みを見せるたびにメフィストはその薬を見せて彼を唆した。けれど、燐はいつも頑としてそれをはねつけるのである。
「ならば、こちらはどうです?」
 メフィストは箱の中から紫色をした包みを取り上げた。
 燐の目が細められて、初めて見るそれを訝しげに眺めた。それは何だと無言で問いかけている。
「これを飲めば記憶が消えます」
 奥村燐として生きてきた証はなくなるけれど、未練がましく縛られている過去からは解放され、悩みも苦しみもない新しい生き方を一から始めることができるだろう。たとえば始めから悪魔として生きてみるのもありだ。そうすれば、楽しいことはすぐに見つかって、悪魔の本質である限りない欲求を満たすために、悪魔だけに与えられた長い時間を充てることだってできる。
「何もかも忘れたあとに、生まれ変わることができる―――」
 メフィストの言葉に、燐は首を横に振った。
「俺が俺でなくなったら意味がない」
 燐は俯いて、もう一度、何かを打ち消そうとするように首を振った。
 燐を見つめていたメフィストは、やがて口の端を持ち上げて不敵に笑んだ。
 今までどんなに絶望して憎んで諦めて投げやりになっても、燐は狂って我を失くすことも自分を殺すこともしなかった。彼の父が救いあげ、弟が守った奥村燐の命を、燐は必死になってつなぎとめようとしてきたのだろう。二人がその命をかけた奥村燐を、奥村燐自身が終わらせてはいけないと、何もかもを抱えながら懸命に耐えているのだ。けれど、長い年月に翻弄されて疲れていないはずはない。本当のところでは終わらせてしまいたいと望んでいるとしてもおかしくはない。
 燐は、紙一重のところで葛藤を抑え込み、父と弟の思いに報いようとして、それだけで生きている。
 ―――というのは、あくまでメフィストの個人的な想像に過ぎないのだけれども。
「なまじ人の血が入っているとやっかいですねえ」
 メフィストは紫の包みを小箱にしまうと、燐の前にチョコレートボールの入った深皿を滑らせた。銀色のセロファンに包まれたそれは、再び山のように盛られていた。
 燐は銀の包みに手を伸ばしてひとつをつまみ上げた。取り出した白い小さなボールを口に入れてしばらく弄ぶ。がりがりと音が鳴り始めたのは、燐がチョコレートボールを噛んでいるからだ。
 メフィストは、燐の中でアーモンドが粉々に砕かれていくさまを思い描きながら、己もひとつ口に入れた。





good night ended(後)
(2011.09.24)(タイトル拝借:BALDWIN


▲Text