夜の帳に覆われた空を渡って、広いバルコニーに音もなく降り立った燐は、ひとつだけ開いていた窓へゆっくりと歩いて近づいた。
 向かう部屋は煌びやかな照明に満ちて眩しく、その恍惚とした光から顔を背けて歩く燐の影が色濃く地面に伸びている。
「そこでストップです、奥村くん」
 室内へ入ろうとした燐は、聞こえてきた声に動きを止めた。
 燐を呼んだのは、部屋の主であるメフィストだった。
 開いている窓の前でメフィストの言葉に縛られたまま佇む燐は、中へ入る代わりにメフィストの姿を探して部屋を見渡した。いくつも置いてある見栄えのいいソファのひとつに視線をさまよわせたとき、その上に座ってくつろいでいるメフィストに見当たった。
「そのまま入ってもらっては困りますよ」
 メフィストは燐に目も合わさずに言うと、ローテーブルに置かれた丸い磁器のポットを操ってカップへと紅茶を注いだ。
「塩、もらったでしょう? それでちゃんときれいにしてください」
 仰々しい手つきでテーブルの上からソーサを持ち上げたメフィストは、手にとったカップに口をつけた。
 燐は、黒スーツのズボンと上着のポケットに順々に手を突っ込み、やがて胸ポケットから白い小さな紙の袋を取り出すと、『清め塩』と印字された外装を破って中身を手のひらに広げた。
 こんなものでいったい何が清められるのだろう。ましてや悪魔たるメフィストの部屋に入るのに身を清める必要がどこにある。メフィストのことだから、単純に様式にこだわっているだけに違いないのだろうが。
 燐は、照明を浴びてきらきらと光る細かい粒を足元にまいて、それから、手について残った塩を舌先で舐め取った。
「ん、いいでしょう。中へどうぞ」
 促されて部屋へと入った燐を、一面ピンクの柔らかい絨毯が迎えた。
「どうでしたか、お通夜は」
「べつに、どうもこうもない」
 黒光りする燐の靴に、手入れのきいた絨毯の桃色の細い毛が触り、それは燐の歩みに合わせて生きているもののように動いた。
「ずいぶんと素っ気ないんですね。あなたのお友達の最期ですよ? 感じるものぐらいあったでしょうに」
「彼女は、俺が一方的に見ていただけで、友達とは違う」
「けれど、その魂は杜山しえみの転生したものなのでしょう?」
 問いかけには答えず、燐はメフィストをまっすぐに見据えた。口に当てたカップを傾けるメフィストの喉の突起が上下に動いて、紅茶が中を滑り落ちていくのが分かった。
「やっと見つけ出した生まれ変わりなのに、残念でしたね」
 気持ちのこもらないメフィストの言葉を無言で受け流した燐は、メフィストの座るソファの横に来て足を止めた。
「クロは?」
「となりの部屋で寝てますよ」
「―――世話になった。連れて帰る」
 燐は、ソファの後ろを通り過ぎて、となりの部屋に続くドアの前に立った。それを開けようとノブに手を伸ばしたとき、ドアが壁ごと奥へと引っ込み、燐の手から遠ざかった。まるで意思を持っているかのように部屋自体が動いて広がったのである。ほんの今まで燐の目の前にあった壁は遥か向こうに見えていた。
 こんなふうに自在に空間を操ることができる者はこの場にただひとり。
「メフィスト」
 たしなめるように燐が呼ぶと、メフィストは肩越しに振り向いて、はじめて燐に視線を寄こした。
「そんなに急いで帰ることもないでしょう? 久しぶりに会ったというのに」
 メフィストの言葉に続いて、一組のティーセットが新しくテーブルの上に現れ出た。彼の手にあるのと同じ色と柄をした派手なつくりのカップに、ポットから紅茶が注がれる。
 こちらの返事は関係ないらしいと諦めて、燐はメフィストの向かいに腰を下ろした。クッションの効き過ぎたソファに体が沈み込んで、足が一瞬だけ絨毯から浮いた。
「あなたの使い魔を預かるのは何度目になりますかねえ」
「さあ、もうとっくに数えるのはやめた」
 燐が、いつでも自分の傍らから離さないクロをメフィストに託すのは、誰かの葬式に出かけるときだった。黒猫の外見をしたクロを連れてその場へ姿を現すのは周囲の目を考えるとなんとなく気が引けて、その日だけはクロと別々の時間を過ごす。
「その様子では、彼の年齢も把握してないんでしょうね」
「―――600は越えたと思う」
 なるほど、と頷いたメフィストは、口をつけたカップの淵を指で拭き取り、ソーサをテーブルに置いた。
「で、あなたは気がついていますか、奥村くん」
 燐は瞬きを止めてメフィストを見つめた。
「悪魔には珍しいことですが、彼の体、以前に比べて衰えが見られます」
 表情なく告げたメフィストの前で燐はテーブルに視線を落とした。
 透明なガラスには手の込んだ模様が散らばっており、それらは立体的に浮き上がって見えている。裏側から彫り刻んで加工をするとそのような意匠になるのだといつだったかメフィストに教えられた。
「一度調べてみたほうがよさそうだ」
 呟いたメフィストは、俯く燐の視界へティーカップを静かに滑らせると、紅茶を飲むよう勧めた。温かいうちが美味しいですから、と。
 燐は、小さな容れ物の中を満たしている紅色の液体を眺めた。まだ微かに湯気の立っている表面には己の顔がぼんやりと映っていて、ふと息を吹きかければ、その像はさざなみに乗って揺れた。
「さあ、お菓子もどうぞ。あなたが美味しいと言ってよく食べていたビスケットです」
 示された陶器の平皿には、四角や丸の形をしたビスケットがきれいに揃えて並べられていた。
 メフィストの言うとおり己はこれを好んで口にしていたような気もするけれど、その味と食感はすぐには思い出せない。記憶を辿るつもりが、そもそもビスケットとクッキーの違いは何だったかと要らぬ疑問に意識を取られて、燐は沈黙した。
「おや、気が進みませんか。ならば、こちらはどうかな?」
 最近の私のお気に入りですと言いながらメフィストが差し出した深皿には、銀のセロファンに包まれた丸い粒が山盛りに積まれていた。
 なんだろう、キャンディだろうか。
「チョコレートですよ」
 メフィストは銀色の重なりからひとつを摘み上げると、セロファンを開いて、中にあった白いチョコレートボールを取り出し、口へ放り込んだ。
「そういえば、あなた、昔チョコレートを食べ過ぎて鼻血を出したことがありましたねえ」
 思い出し笑いに目元を緩めたメフィストの口から、がりがりと音が聞こえる。チョコレートの中にナッツでも入っているのかもしれない。
「血の出すぎで倒れたあなたを運ぶのは意外に大変でした」
「―――いつの話だそれは」
「はて、いつのことだったやら」
 メフィストはチョコレートの山に手を伸ばしながら、早くしないと全部私に食べられてしまいますよと楽しげに燐を急かした。
「そうそう、あなたに食べさせたいものがまだ―――」
「メフィスト、」
「―――なんでしょう?」
「おまえ、今日はよくしゃべる」
 燐はまじまじとメフィストを見つめて言った。
 メフィストは目を細めて燐を見返した。
「私がおしゃべりになるのは、あなたのせいです」
「俺の?」
「そんな顔をされるとね、私だって構いたくなる」
 メフィストは、手にしたばかりのチョコレートの包みを剥くと、露わになった白い粒を持って燐の唇に押し当てた。顔を逸らせて燐がそれを拒んでも、無理強いすることはなく、引っ込めたチョコレートを自身の口に運んで、がりがりと音を鳴らした。
 燐はもう一度手元のティーカップを見下ろして、紅茶の水面に己の顔を映し出した。
 メフィストに出会った頃に比べれば、子供じみた青臭さは抜け、輪郭の丸みは削げ落ち、それなりに大人びた顔つきになってはいると思う。けれどその変化は、これまで生きた500年近くの歳月とはまったく釣り合いのとれない微々たるものだった。メフィストのような完全な悪魔体とは違い、人間の血肉を持つ燐に成長はある。ただし、気の遠くなるほどゆっくりとしたそれは、人間から見ればないに等しかった。燐の見た目は人間的に言って20代の若さだった
「俺の顔はそんなにひどいか」
「ええ。見る者に寂しさを抱かせるほどには」
 燐は紅茶からメフィストへと視線を移した。
「悪魔のくせにそんなものを感じるのか、おまえは」
「それを感じることも理解することもありませんが、想像することなら私にもできますよ」
 薄笑いを浮かべたメフィストはソファから腰を浮かせると、テーブルに片膝を乗せて燐の目前に迫った。
「私には、あなたがいま慰めをほしがっているように思えるんですがね」
「たくましい想像力だな」
「それもあなたのおかげです」
 また俺が原因か、と口にはしない言葉を視線にのせて燐はメフィストを見た。
「肝心なことをあなたは何も言わないのでね、こちらが想像するしかない」
 まるで一人遊びのようだと愚痴らしく言いながらメフィストはテーブルの上に乗りあげた。その体が深皿に触れてチョコレートの山がばらばらと形を崩し、落ちた銀色の粒たちが方々に転がった。ティーカップに入った紅茶もこのままではこぼれてしまうのではないだろうか。
 と、燐は頬を掴まれ、無理やり視線を引き戻された。
「私が与えるも与えないも、あなた次第だ」
 ささやくメフィストの顔が近くにありすぎて、焦点を合わせるのが難しい。
「さあ、どうしてほしいか言ってごらんなさい」
 甘ったるいメフィストの息が燐の口を掠めた。
 メフィストの言うように、俺は寂しさを感じているのだろうか。慰めてほしいと思っているのだろうか。己の内心に探りを入れようとした燐は、けれどすぐにそれをやめた。そこに向き合って何かやっかいなものに気づくようなことになるのは今さら面倒である。
 ここはメフィストの想像力に委ねておくのがちょうどいい。
 燐は目を閉ざして全身の力を抜いた。
「やれやれ、しかたのない子だ」
 ため息とともにメフィストは燐の唇を食んだ。
 こじ開けられた口内にメフィストの舌が入り込む。
 燐の体は、メフィストの重みを受けて、背中からソファに沈んだ。

 メフィストに慰めを与えられているあいだ、燐は一度も目を開けることをしなかった。





good night ended(前)
(2011.09.24)(タイトル拝借:BALDWIN


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