気がついたら夕日は落ちていて、部屋のなかはぼんやりと暗く頼りなげだった。
 日が短くなったなあと思う。立ちあがって窓辺に寄ったら、すきま風が少し冷たかった。
 音をたてないようにカーテンを閉めて、デスクライトの豆球だけをつけると、ろうそくで灯したような明かりがじんわり広がっていった。
「―――ん」
 吐息が聞こえて俺は静かに雪男のベッドに駆け寄った。雪男の息は苦しそうに上がっていて、さっきよりも忙しなく胸がふくらんだりへこんだりしている。おでこに手をのせると、熱さがぶり返していて、手のひらに雪男の汗を感じた。
 薬の効果がきれかけているんだろう、新しいのを飲ませて辛いのをとってやりたいけれど、まだその時間じゃなかった。シュラに言われたとおりにやるのが雪男の体にも俺自身にとっても安心だから、時間はちゃんと守らないといけない。
「もうちょっとだからな、雪男、がんばれ」
 返事がないかわりに、雪男のはあはあと荒い呼吸が聞こえた。

 急に悪魔の体になったからなのか、それともサタンに体をのっとられたのがいけなかったのか、雪男は体調を崩して寝込んでいた。シュラの見立てでもよく原因が分からなくて、けれど、そのうち抵抗力ができてもとどおり元気になるだろうと、まるで風邪のときと変わらないことを彼女は言った。
 確かに風邪とおなじで雪男の体は熱くて、電流の流れたコイルみたいに真っ赤になって熱を発している。生まれた熱は、けれども、うまく外に発散されないで雪男のなかでどんどんたまっていくようだった。それが痛くて苦しくてきついんだろうなと思う。
 俺が悪魔になったときはどうだったかと思い出そうとしても、それらしい記憶は見つからなかった。憶えているのは、父さんを死なせてしまった悔しさと悲しさだけで、きっと俺は、そういうのに心が埋め尽くされて、体が悪魔になったことの痛みどころではなかったのかもしれない。
 思えば、俺は雪男から父さんだけじゃなくて『人間』も奪ってしまったことになるんだろう。雪男があんな危ない話にのったのは、ぜんぶ俺を守るため、俺を人間に戻すためで、あげくに悪魔になってしまったのも、俺の身代わりになろうとしてのことだ。
 バカだ、雪男は。俺のために雪男を大事にしない雪男は、本当の本当の大バカだ。
 雪男の頬を汗が流れていく。すごい勢いで顔じゅうに汗がふきでていた。濡らしたタオルでとりあえずはふいたけれど、汗は首にも見えていて、体のあちこちから汗は出ているらしかった。
「雪男、すぐ終わるから、ちょっと我慢、な」
 雪男の上半身を抱き起して寝間着を脱がし、肩と胸と腹と、肌についた汗をふきとった。雪男を抱っこしたまま後ろに手を伸ばして背中もふく。きれいになったあとは洗いたてのシャツを着せて、またベッドに寝かせた。
 今度はズボンを取り替えようと掛けぶとんをはがして雪男の体を横に倒した。
 くてんと丸まったしっぽが一緒にくっついてきた。
 黒くて細長いのが力なく垂れていて、それは雪男のおしりのところから生えていた。
 雪男のとがった耳も歯も、雪男が人間じゃないことを十分に見せつけてくれるけれど、いちばん強烈なのはしっぽだ。俺に生えている悪魔のあかしとおなじものが雪男にもついている。おそろいだ。兄弟そろって俺たちは悪魔になった。
 脱がせたズボンを脇におしのけ、足のすみずみまでタオルで汗をふいて、新しいズボンをはかせた。それから雪男の体を抱え上げて、乾いたシーツとふとんのある俺のベッドまで運んだ。
「よし、終わり。よくがんばったな、えらいぞ、雪男」
 あやすようにぽんぽんと、ふとんの上から雪男の胸に手を置いた。もし雪男が起きていたら、子供扱いしないでよと文句を言われそうだと俺はふと思った。

「・・・ぃさん」
「ん、起きたのか?」
 雪男の顔をのぞきこんだら、まぶたはぴったりと閉じていてまだ眠ったままだった。
 呼吸がだいぶ静かになっていて、さっきまでの苦しそうな表情はなくなっていた。少しまえに飲ませた薬が効いているらしい。寝言を言えるくらい楽にはなったようで安心した。
「にーさん」
 俺の夢でも見ているんだろうか、どこまで俺でいっぱいなんだ、この弟は。頭の中をわってみたら、きっと俺しかでてこなくて、雪男のこと以上に俺が雪男のなかにいるんだ。もういっそ、雪男が俺になればいい。そして俺も雪男のことだけ考えて、雪男でいっぱいになって、雪男になろう。
 ふと雪男のつぶった目から涙がにじんできて、あふれたものがこぼれていった。怖い夢でも見ているのかもしれない。かわいそうに、かわってやりたいのに、俺はなにも雪男にできない。
「俺はここだよ、雪男」
 ふとんの中で雪男の手を探しあてた。握るとやっぱりまだ熱くて、でもそれは雪男が生きている証拠だった。体が生きるためにたたかっている。命が、一生けんめいがんばっているんだ。
 悪魔でもなんでも、雪男が生きているだけで俺はよかった。雪男が悪魔になったことは悲しいけれど、雪男が生きていることがいちばん大事で、人間でいてほしかったというのは、今となってはついでのようなものだ。
 俺のために犠牲になるだとか俺を守って死ぬだとか、どうしたら雪男はやめてくれるんだろう、そんな恐ろしいことをもう雪男には考えさせたくない。雪男が傷つけば俺がどれだけ悲しむのか雪男はもっと知るべきだ。もしも雪男がいなくなって俺だけひとりぼっちになったら、俺はたぶん生きてはいけない。
 本当に俺のことを思ってくれるのなら、俺と一緒に生きていくことだけを雪男には考えてほしい。ぎりぎりまで粘って、けれどそれができない状況に追いこまれたときは、どうか俺に許してほしい、雪男と一緒に死ぬことを。どちらかが残るなんてことはぜったいにだめだ。俺は二度とあんなこわい思いはしたくないし、雪男にあんな思いをさせたくない。
 一緒に生きるか死ぬか、そのふたつが分かりやすくていいと思う。

 気がついたら俺の頬もぬれていた。
 流れてきたばかりの水が唇にふれて少ししょっぱかった。




ふたりでいきます
(2011.10.16)(タイトル拝借:BALDWIN


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