目の前で起きている出来事がとても信じられず、燐は自分がここに来た目的も忘れて呆然と立ち尽くした。
 いわゆる不良たちが束になり一人の男を狙い倒そうとしているのだが、ばたばたと倒れていくのは不良たちのほうで、彼らの標的だったはずの男は眼鏡の奥に涼しい笑みを浮かべながら不良たちの拳を流している。
 その男が、あの奥村雪男だという事実は、燐にはとうてい受け入れられなかった。
 まじめで成績も良く、いつもにこにこと笑みを絶やさない、優しく親切で気配りのできる、いい奴と評判の優等生だったはずだ、奥村雪男という人間は。血や汗や泥は似合わない、そういうのとはまったく無縁の男子高校生だと思っていたのだ、ついさっきまでは。
 不思議なことに、相手の不良たちは奥村雪男に手が届くまえに勝手に地面に倒れ落ちていく。奥村雪男はもちろん彼らに手を出していないのだが、なぜか不良どもを地べたに屈服させている。
 直接触れてもいないのにどうしてそんなことになるのかは分からない。ただ燐には、不良たちが音を立てて地に伏す直前に彼が何か言葉を小さく唱えていたのが見えただけだった。
 あれだけの数を誇っていた不良の群れもいまや残りは一人である。
 最後まで奥村雪男と対峙することになったのは、燐も顔見知りの三年生の岩沢だった。
 岩沢という男はこれまでにもしつこく燐をつけ狙い、なにかにつけ因縁をふっかけてくる嫌な奴だった。
 喧嘩は強いが馴れ合いを好まない燐はよく不良に目をつけられたが、特に岩沢は何度燐に返り討ちにされても諦めない。わざわざ一年生の燐のクラスにまでやってくるから相手をしないわけにもいかず、そのたびに燐は校舎の屋上で岩沢とその取り巻きに狙われるのだ。そう、今の奥村雪男の状況と同じように、一人を複数がよってたかっていたぶろうとする。
 燐と岩沢の場合は、襲い掛かってくる岩沢たちに燐が激しく抵抗するため、いつも殴り合い掴み合い蹴り合いとなり、どちらも派手に血を流し、傷を作り、体を痛めた。
 ところが、奥村雪男の場合はそのどれにも当てはまらなかった。
 奥村雪男は、向かってくる岩沢をダンスのステップを踏むかのように軽々と避けると、余裕たっぷりに眼鏡のブリッジを押し上げた。その瞬間、岩沢は苦しげな声を漏らし、力が抜けたように顔から地面に突っ伏した。手はまっすぐに奥村雪男に伸ばされているが、それが本人に届くことはない。
 中学生のころから喧嘩慣れしている燐でさえ岩沢との取っ組み合いは並大抵のことではないというのに、奥村雪男はあっさりと岩沢をコンクリートに沈めたのだ。
 どのような手を使ったのか謎は残るが、それでも燐は奥村雪男の強さは本物だと認めざるを得なかった。

 奥村雪男が岩沢に連れていかれたと燐が聞かされたのは、放課後の掃除当番をいやいやこなしていたときである。
 もしかして自分と間違われて連れていかれたのだろうか。
 そんなふうに考えてすぐに頭を振った。
 奥村雪男が燐と同じ姓であるとはいえ、いくらなんでも岩沢が燐の顔を間違えるはずがない。奥村燐に用があれば奥村雪男ではなく奥村燐に声をかけるだろう。
 燐は手に持っていた箒とちりとりを放り出して屋上に走った。
 岩沢は奥村雪男に用があるから彼を連れていったのだ。
 何の用かは、奥村雪男の人となりを考えればなんとなく見当はつく。
 奥村雪男は二カ月前に転入してきたばかりだったが、その均整の取れた外見と優秀な成績と人当たりの良さで周囲の圧倒的な人気を集めていた。奥村雪男が行くところに人だかりができ、その一挙手一投足が注目を浴びるという、まるで全校の中心が彼であるかのようだった。
 そんな人気者に好意を寄せるのが人として自然なことなら、彼を妬んだり疎ましく思ったりするのもまた人らしい感情の現れであろう。普通の人間が持ち得る以上の器量と能力を持つ奥村雪男の輝きは眩しすぎるのだ。その強い光を素直に認めて惹かれるのも、それに反発して抵抗するのも紙一重の差なのかもしれない。生き方としては前者が楽であるのに違いないのに、あえて岩沢は後者へと転び、唯一誇れる腕力で奥村雪男を光から暗闇に陥れようとしているのではないか。
 早く岩沢を止めなければ。
 燐は廊下を走り階段を駆け上った。
 あの奥村雪男が傷つくところを見たくもないし想像したくもなかった。いくら背が高く体格が良いとはいえ、どう見てもお上品な優等生が岩沢に抵抗できるとは思えない。一方的に難癖をつけられて殴られて終わりだろう。万が一にも、あり得ないことだが、岩沢とやりあえたとしても、奥村雪男のきれいな手が他人を痛めることで傷ついてしまうのはいやだった。
 自分が奥村雪男を守る以外にない。
 奥村雪男と岩沢の間の問題だからと見過ごすことは燐にはできなかった。
 友達でもない、まともに話すらしたことのない奥村雪男をなぜ助けたいと思うのか。
 燐は、奥村雪男に惹かれている人間のうちの一人であった。
 問題児だの落ちこぼれだのと生徒に遠巻きにされ教師にも見限られた燐を、奥村雪男は見下すでもなく嫌うでもなく、始めから他の生徒に接するのと同じように扱った。
 燐は、どんなときでも眼鏡の奥で笑っている奥村雪男を胡散臭い奴だと思いながらも、いつも多くの人に必要とされ愛されている彼が自分のことを嫌ってはいないということに、心のどこかでほっとしていた。
 奥村雪男を強く意識するようになったのは、少し前の授業で行われた化学の実験がきっかけだった。
 出席番号順で化学室の机に座ると、燐と奥村雪男は同じ班になる。
 燐は実験に集中する奥村雪男を遠巻きに眺めていた。使う薬品の分量を細かく計り、小さな匙にのせた粉末をこぼさないよう慎重に試験管の中に入れていく。真剣な表情と丁寧な手つきから、彼の真面目で几帳面な性格が如実に伝わってくる。
 色白の頬と口元にある黒子はやはり目立っているなあと見ていたら、
「奥村くん、これかき混ぜてくれる?」
 と笑顔の奥村雪男に呼ばれて驚いた。
 まさか声をかけられるとは思わず、燐は動揺を隠すのに精一杯で、頷くことしかできなかった。
 奥村雪男の隣に座らされ、言われるままにビーカーに入った透明な液体をガラス棒でかき回した。
 奥村雪男がビーカーの中を覗き込んでくるたびに、優しく穏やかな笑顔が間近に迫る。普段はよく見えない眼鏡の奥には意外に濃く長いまつ毛があり、さらにその奥には光の加減で濃淡の変化する緑色の瞳が収まっていた。 試験管を傾けてピンク色の液体をビーカーに注ぐ彼の指は、すらりと細く長くしなやかであった。形の良い爪の下は一部が半月形に白くなっており、それは燐の爪と同じ、おそろいだった。
 そんな誰にでもあるような小さな共通点がなんとなく嬉しくて密かに笑ったら、それを見られていた。
 奥村雪男に、気がついたら、見つめられていた。
 そのときの奥村雪男には、さっきまでの人好きのする笑みはなかった。
 何かの思いのこめられた重たい眼差しをただまっすぐに向けられていた。
 目が離せない。
 奥村雪男の姿以外に何も目に入らず、耳に聞こえてくるのは彼の微かな呼吸の音だけ。ここにいて息をしているのは、動いているのは、燐と奥村雪男の二人だけのように思えた。
 鼓動が早くなり、体中の血がざわめき、つま先から頭のてっぺんにまで熱が広がっていく。頭の中はじんじんと痺れ、思考も何もあったものではない。
 自分の身に起きていることの訳が分からず早く目を逸らしてしまいたいのに、奥村雪男の強い視線がそれを許してはくれなかった。
 これ以上は自分が自分ではなくなりそうで、そうなるのがとても恐ろしいような気がして、それでもその状況から逃げることができずにいる。
 どうしようもない切迫感に泣きたくなり、とうとう視界までにじみ始めたとき、奥村雪男がふと笑顔を取り戻して、燐はようやく解放された。
 燐は近くの女子生徒にビーカーを預けると、気分が悪いと言って化学室から抜け出したのだった。
 以来、どれだけ奥村雪男から距離を置こうとも燐は彼のことを意識しないわけにはいかなかった。
 あの実験の最中にほんの少しの視線の交わりで体験した激しい感情の揺れをもう二度とは味わいたくないと思う一方で、燐の目は耳はいつでも奥村雪男を追いかけた。
 奥村雪男に惹かれているのだと燐が自分の気持ちを認めたのは、それからすぐのことである。
 屋上に続くドアが見えて燐は走るスピードを上げた。
 ドアの向こうにいる奥村雪男がどうか無事でいますように。
 勢いよく飛び込んだ先に、果たして奥村雪男は無傷のまま立っていた。
 教室にいるときと変わらない笑顔で、不良たちを地面に転がしていた。

 岩沢は、たいしたもので、一度は倒されながらもいまだにコンクリートの上を這いつくばり奥村雪男に近づこうとしていた。
 この際、なぜ奥村雪男が言葉だけで触れもせず岩沢を屈服させることができるのか深くは考えないにしても、彼が何事かを口にするたび、岩沢の苦悶の表情はますますひどくなり、見ているこちらが痛々しく感じるほどである。
 体にはどこにも傷はなく、顔はきれいなまま、血も出てはいない。それなのに岩沢は脂汗をかき、呻きを上げ、歯を食いしばっている。見えない力がその体の内側を打ちのめしているかのようだが、その痛みは燐には想像できなかった。
「もういい、やめろ」
 燐は声を上げて奥村雪男に駆け寄ると、岩沢を背中にかばうようにして二人の間に立ちはだかった。
 奥村雪男は、この場に燐が居ることを少しも驚かず、見慣れた笑顔を燐に向けた。
「なぜ止めるの? きみは彼を嫌いだろう?」
「けど、もう十分だ」
「そう。やさしいんだね」
 奥村雪男が燐に笑いかけるのと同時に岩沢の呻き声がやんだ。振り返って見下ろすと、苦しみに歪んでいた岩沢の顔が多少は楽になったように見えて、燐は安堵の息を吐いた。
「ありがとう、奥村」
「きみが言うことじゃないよ」
「それでも―――」
 続く言葉を伝えようとして燐はびくりと固まった。
 いつの間にか起き上がり膝立ちになっていた岩沢が、後ろから手を伸ばして燐の手首を掴んでいた。
 岩沢の顔を見てぞっとした。
 血の気は引き、唇は紫色で、瞳の奥は小刻みに揺れていた。
 それでも燐を掴む手は力強く、その爪は肌に食い込み、痛みがある。
 振りほどこうと思えばできないこともないが、燐がそれをしないのは、膝をついて前屈みに手を伸ばしてくる岩沢が、助けを求めて縋りついてくるように見えたからだ。
「おい、触るな」
 低い声が聞こえて燐は我に返った。
 誰の声だろうかと一瞬迷ったが、岩沢でないとすれば、奥村雪男しかいなかった。
 奥村雪男は見たことのない顔をしていた。
 表情が削げ落ち、冷たさしかない。
 見るものを凍らせるような鋭い目が岩沢を見据えていた。
「離せ」
 いったい奥村雪男のどこからそんな身を切るような暗い声が出ているのだろう。
 燐は、それが自分に向けられていないことに素直に安心し、それを向けられている岩沢には同情した。
「その汚い手を離せと言っている」
 奥村雪男の言葉は逆に岩沢を頑なにさせたらしい。 岩沢はますます力を込めて燐の手首を強く握りしめた。
 食い込んでいた岩沢の爪がとうとう燐の皮膚を突き破り、赤い染みを浮かび上がらせた。
 ああ、血が出た。
 燐が見やった傷口の、その向こうには、岩沢のいびつに歪んだ顔があった。
 それはいやらしくわらっていた。
 燐は、少し緩んだ岩沢の手からとっさに手首を引き抜き、後退りした。
 岩沢は、晒した舌先で爪と肉の間に残った燐の血を丹念になぞり、そうしてゆっくりと口の中に指を誘い入れると、唇をすぼませてちゅうちゅうとそれをすすった。
 血はほんの数滴しか爪にはついていなかったはずだが、なにをそんなに熱心に舐めているのか。そもそも他人の血を口に入れて気持ちが悪くないのだろうか。
 岩沢は燐を上目遣いに見上げたまま、濡れた舌を時々突き出しては見せつけるように動かし、聞かせるように音を立て己の指をしゃぶっている。
 だらしなく緩みきった顔には恍惚と呼べる表情がある。
 岩沢の股間がはっきりと膨らんでいることに気がついて燐はかっとなった。
 恥ずかしさに自分の顔が赤く染まっていくのを感じる。
 今までに見たことのない岩沢の姿だった。
 岩沢の醜態を止めようと足を踏み込んだとき、
「近づくな」
 と燐を止めたのは奥村雪男だった。
「じっとしてて」
 奥村雪男は燐の肩を岩沢から遠ざけるように押すと、燐に背中を向け、無言で岩沢に近づいた。
「下衆が」
 そのたった一言で岩沢は再び地に沈められた。
 コンクリートに亀裂が入り、仰向けに倒れた岩沢の体に沿って地面が沈下していく。岩沢の上にだけ何倍にもなった重力が圧し掛かっているようで、つまり岩沢の体は上から相当の力で押しつぶされているらしい。
 ぼきぼきと嫌な音がして岩沢の絶叫が聞こえた。
 背骨が折れたのだと思うと燐の体は竦んだ。
 今、奥村雪男がどんな表情をしているのか、背後にいる燐には窺い知ることはできない。が、見えなくてよかったと思う。
 奥村雪男は、力なく地面に投げ出された岩沢の手を静かに踏みしめた。やがて、一本だけ、燐の血を浴び岩沢が自慰に使った中指の上に、容赦なく踵をつきたてた。
 どの痛みに対するものなのか今や分からない岩沢の掠れた悲鳴は、哀れなくらいに弱々しい。
「それ以上は、だめだ……」
 奥村雪男の背中にすがりついた燐は、泣いていた。
 倒れている岩沢も、彼を傷めつけている奥村雪男も、もはや燐の知らない者たちだった。
 燐に向き直った奥村雪男は微かに目を見開き、そっと手を伸ばして燐の頬に流れる涙を指先でぬぐった。
「どうして燐が泣くの」
 奥村雪男の困惑の表情を初めて見る。
「お願いだから、泣かないで」
 宥めるように頬を撫でる奥村雪男の指には、心から燐を気遣っているのだと分かるほど優しさがにじみ出ていた。覗き込んでくる顔を見れば、彼が本当に困っているのが伝わってくる。
 誰にでも同じように振りまく笑顔でもない、岩沢を嬲るときの厳しく冷酷な顔でもない、奥村雪男のまた別の顔がそこにある。
 そう思ったら涙は止まるどころか嗚咽がひどくなった。俯いた拍子に涙の滴が奥村雪男の手に落ちる。ますます困らせることになるのは分かっていたが、もう自分ではどうにもならなかった。
「大丈夫、燐?」
 そういえばいつの間にか、奥村くん、が、燐、にかわっている。そう呼ばれることに少しも悪い気はしない。
「燐」
 もう一度名前を呼ばれて燐がようやく顔を上げたときである。
 岩沢が、奥村雪男の肩越しに立っているのが見えた。
 燐は短い悲鳴を上げ、とっさに奥村雪男の腕を掴んだ。
「それはオレの獲物だ」
 そう言った岩沢の姿は明らかに異様であった。
 あれほど絶望的な痛みを受けても命に別条はなかったらしい。が、真っ青の顔に赤く濁った目は不気味だった。開いた口からは涎が糸を引いて垂れている。剥き出しの歯と耳が鋭く尖っているように見えるのは気のせいだろうか。
「オレが先に目をつけた。オレのものだ、返せ」
 叫んだ岩沢の、丸まった背中がまた嫌な音を立てた。
 ぎちぎちと裂けるような音が少しずつ大きくなる。
 一際耳障りな破裂音がしたかと思うと、岩沢は背中に羽根を生やしていた。
 背丈ほどもある真っ黒の巨大な羽。
 蝙蝠が持つような一枚皮の羽だった。
 岩沢はもう人間ではあり得なかった。
 ばけものとしか呼べる言葉が見つからない。
「覚醒したか」
 奥村雪男の舌打ちが聞こえた。
 忌々しげに岩沢を見やる彼の瞳は、緑の色を濃くしていた。
 覚醒とは、何かに目覚めたということだろうか。岩沢が、いったい何に?
 疑問は言葉にならなかった。
 燐を背後に隠すようにして岩沢と対峙した奥村雪男の気配がどこか苛立っていたからだ。
「燐はおまえのものではない」
 毅然とした奥村雪男の言葉をはねつけるように岩沢は大きく羽を広げると、奥村雪男めがけて突進した。
 岩沢は奥村雪男には届かない。
 あと数センチというところで岩沢の体は後ろに弾かれた。今度もやはり奥村雪男は岩沢に少しも触れてはいなかった。
 すぐに起き上がった岩沢は再び向かってきたが、直前にきて急に体を強張らせると、それからまったく動かなくなった。奥村雪男が呪文のような長い言葉を口にしたあとでそうなったのだから、動きたくても動けないというのが正しいのだろう。羽と胴体と腕がひとまとめにロープでくくられたように密着し、どんなに力を込めても激しくもがいても離れないのだ。
 殺してやるだの燐を返せだのと聞くに堪えない暴言を吐く岩沢を尻目に、奥村雪男は後ろを振り返ると、
「ちょっとだけ我慢してね」
 囁いて燐の耳に唇を寄せた。
 ふと、岩沢の音が聞こえなくなった。
「僕だけを見て」
 頭の中に聞こえてきた声に頷くと、岩沢の姿が視界から消えた。
 ブレザーを脱がされ、ネクタイを外されても、燐は言われたとおりじっとしていた。どういうつもりで何をされるのかは分からないが、奥村雪男を信じたかった。
 シャツのボタンが外れ、首と肩の肌が露わになったとき、燐は慌てた。不安を隠さず奥村雪男を見上げると、優しく蕩かすような甘い目で見つめ返される。瞳の緑は淡色に戻っており、燐を少し落ち着かせた。
 冷たい空気に晒されて肌が粟立ったが、奥村雪男が肩に触れたとたんに寒さは感じなくなった。彼の手は温かく、燐に熱を分けてくれる。
「やっぱり、まだ残ってた」
 奥村雪男の声は弾んでいた。
 何かを見つけたのだろうか。
 肩と首の間の付け根を撫でられながら思う。
「ここに二つ、小さな丸い窪みがある」
 確かに、風呂上がりに見る鏡にはいつも、右肩の首の付け根に黒子だか痣だか判別のつかないものが映ってはいた。
「これは燐が生まれたときに僕がつけたしるしだ」
 奥村雪男の言っていることが少しも理解できないのは自分の頭が悪いせいなのか。
 燐はゆるゆると頭を振った。
「母親のお腹の中にいるときから僕たちは一緒だった。だから燐を見つけたのは僕が先。あいつなんかじゃない」
 そう言って奥村雪男は、彼がしるしと呼んだ二つの小さな窪みに舌を這わせた。
 引き攣るような痺れを微かに首筋に感じた。
「……奥村?」
 なぜこんなことをされているのだろう。
 もう一度頭を振ってみたが、まだ頭の中ははっきりとしない。
「『奥村』じゃなくて『雪男』だよ。雪男って呼んで、兄さん」
「兄さん……?」
「僕たちは双子の兄弟だ」
 燐が兄で、雪男が弟。
 二卵性双生児だから似ていなくてもしょうがない。
 けれど二人には紛れもなく同じ血が流れている。
 そんなことを言う奥村雪男の姿が、少しずつ霞んでいく。
 声が遠くて彼の言葉が自分に係ることだとは少しも思えない。
「もう一度、兄さんに僕のしるしをつけたい」
 俺はおまえの兄ではない、俺にはきょうだいはいない、元からひとりだ。そう叫びたいのに、なぜかひどい脱力感に支配され、声を出すのが億劫だった。どうでもいい、どうにでもなれと思考までもが役割を放棄しようとする。
 奥村雪男の顔が首筋に迫った。
 スローモーションのようにひどくゆっくりとして見えた。
 また舐められるのだとぼんやりした頭で思ったとき、
「あぅっ!」
 首筋を走った激痛に、燐は大きく目を瞠った。
 刺されたような貫かれたような鋭い痛みと、焼きごてを押し付けられたような熱く爛れた痛みがあった。
 奥村雪男に噛みつかれているのだとようやく理解した頃、燐の意識は痛みと熱により朦朧としていた。
 歯を突きたてられた首から下は痺れてほとんど感覚がない。自分の足で立っているのかどうかも定かでない。力が入らないから、この痛みの原因を生んでいるのが奥村雪男だと分かっていても、抵抗することも押し返すこともできない。
 首から上は、ただただ熱かった。体内にこもった熱がどこまでも膨れ上がっていくようで、いっそ体ごと破裂してしまえば楽になるのにと思う。
 さらに深く奥村雪男の歯が中に入り込んだ。
 近すぎて見えないが、奥村雪男は今どんな顔をしているのだろう。
 しるしをつけたいと言っていたが、それをしてどうなるというのだ。
 ただの優等生の優男かと思えば訳の分からない力で不良を捻じ伏せたり、双子の兄弟だと告白したかと思えばいきなり噛みついてきたり。
 瞼が重く、目を開けているのも限界だった。
 意識が遠のくその前に、やらねばならないことがある。
「―――ゆきお」
 ちゃんと声になっただろうか。
 奥村雪男に届いただろうか。
 目を閉じる間際、奥村雪男と視線がぶつかった。
 血に染まった赤い唇を舌でなぞる奥村雪男は、あの岩沢と同じ顔をしていた。


***


「少しおいたが過ぎやしませんか?」
「―――フェレス卿か」
 屋上に立つ雪男の、地面に伸びた黒い影の向こうから、一人の男が姿を現した。
 男の名を今しがた雪男はフェレス卿と呼んだが、正確にはメフィスト・フェレスが彼の名前である。身にまとったシルクハットもマントも衣装も、ほとんどが白づくめという奇妙な出で立ちの男であった。
 メフィストは白いブーツをこつこつといわせながら雪男の前に出ると、コンクリートの上に転がっている瀕死の男と、気を失い雪男に抱えられている奥村燐を交互に見やった。
「予定では、あの男を排除するだけと聞いていましたがね」
 あの男というのは、今や蝙蝠に身を落とした岩沢のことである。
「予定変更はよくあることですよ」
 雪男は言ってのけると、後始末はあなたにお任せしますねと付け加えた。
 奥村燐にしつこくつきまとう岩沢という不良を何らかの方法で奥村燐から遠ざける。これが、雪男がメフィストに伝えた当初の予定である。
 岩沢に連れ出される態を装って屋上へ行き、岩沢の奥村燐に関する記憶を操作するでも完全に消すでもするつもりだった。そのときまでは穏便に事を済ませる気はあったのだ。
 ところが、奥村燐本人が現場に現れ、岩沢に血を奪われるという想定外の事態が起きるに至り、雪男は予定を大幅に変更した。
 奥村燐を己のものだと主張するだけでなく、欲望で汚し、泣かせた岩沢は万死に値する。そのうえ奥村燐の血を喰らい覚醒してしまうなど、どこにも情けをかける余地はない。奥村燐が止めなければそのまま葬っていたところである。
「まあ、あの低級蝙蝠に、我らが奥村燐の、吸血鬼の高貴なる血を吸われたことは、私も我慢なりませんがね」
 と口にしたメフィストの手が奥村燐に触ろうとしているのに気づき、雪男はすぐさま距離をとった。おや残念とおどけて見せるメフィストには無視を決め込む。
「それにしても―――」
 そう言ってひと息溜めると、メフィストは好奇に満ちた目を雪男に向けた。
「奥村燐に本当のことを伝える必要はなかったでしょうに」
 それをするのはもう少し先の予定だったはずと言いたいのだろう。
 だが岩沢にはどうしても、奥村燐はおまえのものじゃない、僕のものだと雪男は示したかった。自分たちは生まれたときから互いのつがいとして存在しているのだということも、誰であろうとその運命を変えることはできないのだと、岩沢に見せつけたかった。
 待ちに待ち、二か月前にようやく奥村燐に再会できたのだ。
 十年前の五歳のときに分かたれた絆を結び直すことが雪男の悲願だった。
 吸血鬼の世界と人間の世界とをつなぐ門が開かれる十年に一度の機会を、雪男はただひたすら待った。人間界での十年は、あちらでは百年に相当する。決して短くない時間であった。
 吸血鬼の王と人間の女の間に双子として生まれ、あちらの世界で暮らすはずだったのが、なぜか奥村燐一人だけが人間界に取り残された。一生の伴侶となるつがいを生まれながらに手に入れたというのに、その存在は遠くにある。人間界にいる己の片割れへの思いは募るのに、会いたいと願うのに、会うことはできない。
 その歯がゆさは時が経つほどに奥村燐に対する執着へと形を変え、それは今や雪男の中に深く重く居座っている。
「ところで、奥村燐はどうしましょう。今日の記憶を操作しますか? それともさっそく封印を解いて記憶を戻しますか?」
「まだ少し様子を見たいと思います」
 封印を解き、自分たちが離れ離れになる以前の記憶を戻すのが奥村燐にとって苦しみの少ないやり方なのだろうが、彼が今日の明日でどんな反応をするのか見てみたい気持ちもある。双子の兄弟だと信じた様子ではなかったが、それでも動揺するには十分だろう、今日の出来事は。
「あなたも、相当ですね」
「卿に言われたくありませんよ」
 面白そうだから、というだけの理由で十年前に双子を引き離した元凶が何を言う。
「もう百年経ちました。そろそろ許してはくれませんかねえ」
「まさか」
 冗談でしょうと笑う雪男に、ですよねとメフィストは肩を落としてみせた。
 貸しは大きい、まだつけは払い続けてもらわねば。
「引き続き監視をお願いしますよ。奥村燐を狙う輩はいまだに多いと聞きますから」
「かしこまりまして」
 恭しくメフィストが首を垂れる。
 その隙を見て雪男は最愛の兄にひとつキスを落としたのだった。





運命はカスケード、出遭はテンペスト
(2011.11.11)(タイトル拝借:BALDWIN


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