さんざんに僕をなぶってくれていた風が少しずつ収まっているらしい。さっきまでやみくもに体にぶつかってきた風は、いまでは柔らかなあたりのよい空気の流れとなって、坂道をくだる僕の背中をうしろから押している。なんだかずいぶんと気まぐれなものだ。
 下り坂の終わりにある公園をななめにつっきってゆく。背の高い外灯が一本だけ立っていて、そのあたりの地面をほの暗い白の蛍光灯が照らしていた。いつもなら忙しなく光のもとにつどっている小さな羽虫たちが今夜は見えないから、あの風が彼らをどこかに飛ばしてしまったのだろう。
 横にふたつ並んだブランコが互い違いに揺られていた。人の乗らないそれはいつまでも動き続ける振り子のようで少し不気味に思える。修道院近くの広場で兄や父と一緒に遊んだ記憶のなかのブランコとはどこも似ていなかった。
 うにゃあ、と小さな音がするのを耳が拾った。立ち止まり、音の主を探して目をこらせば、黒に黒を重ねた猫の姿が僕のゆく先に現れ出た。それは僕とうしろとを交互に振り返って、もう一度、うにゃんと鳴いた。ひとつだと見えていた細長いしっぽが実はふたつに分かれてうねっていたので、もしかしたらと思う。
「お、いたな」
 そうして聞こえた声に僕は顔を上げた。
「兄さん?」
「おう、雪男」
 僕に向かってゆったりと近づいてくる兄は、先にクロに追いつくと、彼の横っ腹を拾いあげて腕のなかに抱きこんだ。おまえの鼻はたいしたもんだと言ってクロの首筋をなでまわす兄に、クロは甘えた声を鳴らして応えた。
 近くに見えるようになった兄の、その髪の毛は、風にやられてばさばさに絡まっている。流された毛先が目に入ってこないよう、兄はときどき前髪を手でおさえているけれど、かなりうっとうしげだ。そろそろまた切ってやらないとならない。
「なあ、さっきの風すごかったな」
「うん」
「こいつさ、飛ばされそうになってんの」
 クロを見て兄は愉快そうに笑った。笑われたクロはひとつ短く声を立てると身をよじって兄の腕から逃れ出た。そのまま器用に兄の体を登ってゆき、兄の頭の上に居座った。
「で、兄さんはなにしてんの、こんなとこで」
「おまえを迎えにきた」
「わざわざ?」
「そ」
 兄は僕のとなりに並んで、それから歩き出した。兄について僕も前に出る。
「おまえ、最近かえりおそいからさ、たまにはな」
「そんなの、しなくていいのに」
「んなこと言うなよ。さびしいじゃねえかよ」
 口をとがらせて拗ねたように兄は言った。
「ごはんだって一緒に食べたいだろ。いっつもクロとばっかじゃ、つまんねえんだもん」
 言われたクロは前足としっぽを駆使して兄の頭をぺしぺしと叩く。痛くないのか兄はクロのしたいようにさせている。
「だったら、寮で待ってればいいじゃない」
「それだともっとひまなの。な、クロ?」
 にゃあにゃあとクロはうなずいて、もう仲直りだ。
「―――暇ってなんだよ」
 学校でも塾でもたくさん課題はでているはずなのに、それを片付ける考えは兄にはないらしい。ため息が漏れると、すかさず兄が僕を見た。
「疲れてんのか?」
「ある意味ね」
 兄は心配そうに僕をのぞきこんでくるけれど、僕の心配がまるごと兄なのだ。と言ったところでどうせ兄は心配するな大丈夫だと返すだけだろう。
「なあ雪男、」
 兄は急に歩くのをやめて僕を見上げた。
「なに?」
「おまえ、ちょっとやせたよな」
 そう言って僕を見つめる兄と、同じように僕を見つめるクロがいる。ふたりの目がシンクロしてまばたきをしたのがおかしくてかわいい。
「痩せてないよ。たぶん、また少し背が伸びたからそう見えるのかもね」
「―――それだけか?」
「うん、それだけ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「―――ならいい」
 それから兄は僕に問うのをやめた。クロが兄になにかを訴えてうなっているけれど、兄は腕を伸ばしてクロの背中をひとなでするだけだった。
「あーあ、ずりいよな。おなじもん食ってんのになんでおまえだけよお」
「そんなにかわんないって」
「だったら、おれを見おろすんじゃねえ」
 とうてい無理な要求をしてくる兄に僕は苦笑するしかない。
 びゅうびゅうと騒いでいた風の音はすっかり弱まって、公園を取り巻く緑の葉のこすれあう音が耳に届いている。その量感のあるさざめきは僕たちの前にも後ろにも聞こえていて、まるで輪唱のようにどこまでも続いていた。
「ねえ、ありがと、兄さん」
「―――なにが?」
「迎えに来てくれてありがとう」
 言ってから僕は、声に出して伝える気恥ずかしさに悶えたくなった。けれど、それ以上に、ただ目を細めてうんとうなずいてくれた兄のすべてが身に染みて、僕はどこもかしこもいっぱいに満たされた。
 照れ隠しに笑ってみたら、兄も一緒に笑ってくれる。兄の頭上のクロもうにゃんと大きく鳴いて、それはそれは上機嫌の声をしていた。





救われています。
(2011.07.22)(タイトル拝借:群青三メートル手前


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