真夜中のことである。
部屋の外から聞こえてきた足音は雪男のものだった。
階段を踏みしめるヒールの音がずいぶんと重たさを含んでいる。
少しずつ近づいてくるそれに合わせて、埋没していた俺の意識も徐々に浮きあがった。
俺がこんなことになってから雪男の帰りは遅くなった。
朝早くには部屋を出て、その日のうちには戻らない。
雪男がどこでなにをしているのか俺には知るすべはなかった。
ただ雪男の帰りをこの部屋で待つことしかできることがなくなった。
廊下を進む靴底の音が響いている。
古い床が雪男の一歩一歩にぎしりぎしりと鳴らして返す。
やがて音がやんだ。
雪男がドアの前にたたずむ気配がする。
そうして鍵穴にさしこまれた鍵がドアをひらいた。
(ああ、おかえり、雪男)
「ただいま、にいさん」
部屋の中へと足を踏み入れ雪男はドアを閉め終える。
と、雪男の膝がゆっくりと崩れ、体は前のめりになった。
どさり。
糸のきれた人形のように、雪男はその場に倒れ落ちた。
外れた眼鏡が机の下に転がっている。
雪男はうつ伏せのまま動かない。
けれど、てのひらはしっとりと床を撫でていた。
「ごめんね、遅くなって」
雪男の手はなんどもそこだけを丁寧になぞった。
床板に頬をよせて雪男は目を閉じた。
「にいさん」
俺を呼ぶ声には嗚咽が混じる。
震え始めた雪男の背中に、俺は届かぬ手をさしのべた。
なにを泣くことがある。
俺はこうしておまえだけのものになったというのに。
それがおまえの望みだったのだろう?
おまえが俺をおまえだけのものにした。
俺は失われたけれど、おまえは俺を手に入れたのだ。
永遠に、俺はおまえのものだ。
「にいさん―――」
雪男の裸の目からとろりと流れる涙がある。
床下に埋められた俺の、とうに腐敗した体に、今日もそれは染み落ちることだろう。
創作悲劇と温かな涙
(2011.07.04/08.26修正)(タイトル拝借:
BALDWIN)
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